四の一
佐源次が市平太の住む東平野町へと向かおうと思い付いたのは、今朝のことであった。それから日暮れ近くまで、根付彫りの仕事も手につかぬほど考えに考えた。いま、市平太の長屋へと向かいながらもまだ、それでいいのか、と心中は揺れに揺れている。
南町奉行所同心の柿沼も御用聞きの勇蔵も、書簡を盗み強請を仕掛けてきた者は店の中にいると考えていた。
他に内部の事情を知っているという点では、桧川屋のひとり息子がいたが、その息子は余所に修行に出ている。ここ何日かの動静も探ってみたが怪しい点はない。
絞り込まれたのが、大番頭の弥兵衛、番頭の鎌太郎、手代の市平太の三人である。
だが、いずれも、店主の六左衛門が常時首に掛けている帳場箪笥を開ける鍵をどうやって手に入れたのか、という一点において犯行の裏付けが行き詰まってしまう。
しかたがないので強請の次の出方を待つしかないという結論に達して、もう二日の間、皆、居ても立ってもいられない気分で、あるいは、首を長くして待っている。
だが、佐源次は朧気ながら謎の正体を掴んでいた。
女中の綾の存在である。
綾と市平太は、あの時蕎麦屋にいたふたりだ。そこに佐源次もいたというそれだけなら何の意味もないただの偶然だ。
だが、あのふたりは臭い。
佐源次は、ふたりに会う前、台所の戸の陰で彼らの密談を盗み聞きしていた。その内容だけでは今度の強請の一味とは断定できないが、聴取をした時のとぼけた態度を考え合わせれば、充分懐疑の目を向けるに値すると思える。
市平太が居残り仕事をしていた日に、綾が六左衛門の隙を見て鍵を入手し、どうにかして市平太に渡せばいい。
その方法が模糊としていて何とも掴み切れないが、綾は旦那とずっと一緒にいたと言い訳ができるし、市平太は鍵を入手していないから箪笥を開ける事は出来ないと言い張れるようなやり方をしたのだ。
この推測をそのまま柿沼か勇蔵に報告すれば、市平太は捕まり取り調べを受けて白状をし、事件は解決するかもしれない。
しかし、佐源次の心にそうしない躊躇いが兆していた。
その躊躇いの正体に気付いたのが今朝である。夜具の中で目を覚まし、ふと思い付いたのだ。そして一日悩んだのだ。
長屋の戸を開けると、市平太はすでに仕事を終えて帰っていた。
「もうお帰りですかい、市平太さん、今日は居残り仕事は無しかな」
皮肉には答えず、市平太は六畳の部屋の真ん中に胡坐をかいて突然の来訪者をじっと見詰めてくる。
「話があってここに来たんだ」佐源次は上がり框に腰かけた。
「強請の話なら、店で散々しましたでしょう。わざわざ家まで訪ねて来ることないじゃないですか、親分」
「親分はやめてくれ、佐源次という。ました、ですか、って丁寧にするのもやめてくれ、俺の方が年下だし、本当はこっちが辞を低くしなくっちゃいけねえ」佐源次は体を捻って半身を市平太に向けた。
「では佐源次さん、ご用は何かな」
「じゃ、直截に言うよ」
市平太が固唾を飲む音が、佐源次の耳にまで聞こえた。
「俺にも一枚噛ませてくんな」
いぶかしむように、市平太が佐源次の横顔を見詰めてくる。
「言ってる意味がわからんのだが」
「桧川屋の帳場箪笥から書状を盗み出したのは、あんただ市平太さん。女中の綾さんとぐるになって、どうにかして鍵を手に入れ、箪笥を開けた。そうして手に入れた書状を種にして五百両を用意するよう要求した」
市平太は喉の奥で笑った。
「本気かい。ただの妄想じゃないのか。証拠もないんだろう。証拠があるなら、今ここで俺に縄を打つはずだ。それか何かの罠だろ」
「罠なんてわざわざ仕掛けるほどのことでもねえ。だが、この話を俺の親分や同心の旦那に話したってかまわないんだぜ。そうなればどうなるか、言わずともわかるだろ」
「無実の人間を拷問にでも掛けるって脅してんのか?」
「そう受け取って貰ってもかまわねえ。だが、俺がそうしてねえ、って所をよく考えてくんねえ」
「まどろっこしいな」苛々して市平太は盆の窪をしきりに擦った。
「これから、金をせしめるには、あんたと綾さんだけじゃあ無理だ、って話さ。探索する側から、俺が掻き乱してやるよ」
「俺に言われても困るが、代わりに半分寄越せ、とでも言う気かい?」
「いや、それほど欲はかかねえ。三十両いただこう」
市平太はがくりと頭を垂れた。垂れた体勢で頭の中を必死に回転させて、思案している。どうやらもう言い逃れできそうもない。だったら、目の前にいる下っ引を取り込んでしまった方が得策というものではないのか――。
「ちょっと欲がなさすぎて信用できないな」顔をちょっとあげてじろりと市平太が佐源次を見た。
「三十両という金額にはわけがある。それは俺を信用してくれたら話そう」
「わかった、だが、あんたがそうまでして金が欲しい理由が知りたい。でなけりゃ信用ならねえ」
「妹が岡場所にいる。身請けをしたい。それとその後の暮らしの費用もな」
「わかった」市平太は引きつった笑みを浮かべた。「信用しよう」




