三の七
市平太は帳場で書き付けをしていた。
「今日は、ずいぶん熱心じゃないか」
大番頭が帳面を覗き込むようにして聞いてきた。
頭はもう鬢の辺りまで剥げかかっていて、色が濃く肥えて脂ぎった顔をしていて、ぎょろぎょろとした大きな目がいやに市平太の癇に障る中年の親爺である。言うことなすこと下劣だし、人の心を覗き見ようとするいやらしさのある男で、市平太は好きになれなかった。
「この間のお茶の水の火事で、新しい家がどんどん建てられていますから」
適当にごまかしながら、市平太の鼓動が速まった。同心や岡っ引が恐喝を調べ始めている。事件の当事者である以上、どうしても気が気でないのだが、その焦る気持ちを紛らわそうと仕事をしていたのが、大番頭の目に奇妙と映ったようだ。
そこへ岡っ引が現れて、ちょっと聞きたいことがあるから来てくれ、と大番頭を連れて行った。
茶を飲みに市平太が台所に行くと、ちょうど綾が勝手口から入ってきた。
「ちょ、ちょっと市さん」
市平太は板場に座って茶をすすりながら眉をあげて、なんだという顔をした。
「町廻りの旦那と親分さんといっしょに来ていた下っ引いるでしょ」
綾は市平太の間近に腰をおろした。匂い袋の匂いがむっと鼻をくすぐった。
「それがどうした」
「あれ、あの時あの蕎麦屋にいた男だわ」
「へえ、妙な偶然もあるもんだ」
綾の声の調子は次第に低くなってきている。
「呑気な事いってる場合じゃないわ。それがもとになって私達が怪しいって思われないかしら」
「杞憂と言うものだ。俺達はただ蕎麦屋にいただけじゃないか。そこにあの下っ引もいただけだ。ただの偶然だ。今度の一件とは関わり合いがない」
「あたし、もう、ずっとどきどきしちゃって、胸が弾けてしまいそうよ。市さんはどうしてそう落ち着いていられるのよ。我関せずって顔して」
「俺だって人間だ、内心びくびくしてる」
「ああ、市さんが余計な事するから、余計な杞憂を抱えなくっちゃいけなくなったのよ」
「しっ。今は役人が来てるんだぞ。ふたりでこうして話をしているだけでもまずいんだ。蕎麦屋でいっしょだった偶然がなくたって疑われる」
すると、床板を踏み鳴らす音が近づいて来て、下っ引の男が台所をひょいと覗いた。
「おふたりさん、ちょいといいかな」
言いながら下っ引の佐源次が近づいて来、ふたりの横に座った。片膝を立てた、いつでも動き出せるような体勢であった。今していた会話を聞かれたのではないかと、ふたりはびくりと肩を震わせた。
「あんたは市平太さんだね。先日ここで居残り仕事をしていたそうだね」
下っ引の声音は優しかったが、しかし、目は油断なく市平太と綾を交互に見、わずかな嘘でも見逃さないような厳しさがあった。
「はい、そこの帳場で仕事をしていました」
「帳場箪笥がある部屋かい」
「いや、その隣です」
「何か変わったことはあったかい」
「別段何もありゃしません」
「そうかい」
下っ引は鋭い光を宿した目で市平太を見た。市平太は何も気づかぬ顔で彼の目を見返した。市平太の鼓動が高鳴り、心臓がどんどん口の方へ上って来るような気がする。
「じゃあ、そちらの女中さん、名は?」
「綾です」
「あんたはその時どこにいた?」
「その時、というのは?」
下っ引はにたりと笑った。
「ああ、こちらの市平太さんが仕事をしていた日のことさ」
「はあ、女中部屋で皆で眠っていましたよ」
「嘘はいけねえな」
「え?」
「あんた、その日は旦那さんといっしょだったんだろ」
綾の顔が一瞬こわばり、次いで無理な作り笑いをしてごまかした。
「ああ、そうだったかしら。なんだ、親分さん、ご存じならわざわざ訊かなくてもいいじゃないですか、お人が悪い」
「親分と言うより子分だがね。まあ、人を探るのが仕事だから、勘弁してくんな」
下っ引は首を伸ばし、顔を市平太にちょっと近づけた。それだけでずいぶん嫌な圧力を感じる。
「じゃ、何か思い出したら教えてくんな」
立ち去って行く下っ引の背中が壁の向こうに消えると、ふたりは深い吐息を吐いた。
市平太は脇の下にずいぶん汗をかいていたし、綾は眩暈がしたように体がふらふら揺れている。
市平太は茶をがぶがぶと呑んだ。
――あの下っ引、何か感づいているような気がする。
綾の杞憂が当たっているのではないか、いや、俺も杞憂に取り憑かれているだけか。
自分の心の中にまとわりつく真っ黒い影を振り払うように、市平太は首を振った。




