三の五
「いったいどういうつもりよ、市さん」
綾が長屋に飛び込んでくるなり、下駄を蹴り捨て上がり框を跳ねあがって来た。
市平太は大の字に寝転んでいたのを飛び起きた。仕事が終わって帰宅し、ひと休みしていた所に不意を突かれたような気分である。だが、綾の言葉の意味はわかっている。しかし、話を逸らすように、
「何だ突然、仕事は済んだのかい」
「お夕飯の支度も終えて、おかみさんの目を盗んで出て来たのよ」
この長屋のある深川東平野町は、店のある島崎町から西へ七町(七百メートル)ばかりの所にある。指呼の距離だが、仕事の合間に抜け出して行き来するにはいささか遠い。
「すぐに帰らないと、またおかみさんに嫌味を言われるぞ」
「そんなことより」綾は胡坐をかいた市平太の前に座って、詰め寄るように言う。「あの投げ文、あんたでしょう」
「しっ」と市平太は口に指をあてた。屁をひる音すら隣に筒抜けなほど壁の薄い長屋である。綾はそうと察して声を落とした。
「お店じゃ話難いから、ここまで来たのよ。さっき、妙な投げ文を鶴松が見つけて、手渡されて読んだ番頭さんの顔色が変わっていたわ。すぐに旦那さんとおかみさんを呼んで奥の座敷でひそひそやってた」
市平太は合点がいったという顔をした。おかげで綾がおかみの目を盗む余裕もできたわけだ。
「そうか、そりゃあ面白くなってきたようだな」
「にたにたしてる場合じゃないわよ。いったい何を書いたのよ」
七日前に書簡を盗み出した市平太は時を計っていた。すぐに行動を起こせば、あの時夜まで帳場に残っていた市平太が真っ先に疑われてしまう。そうして今日、投げ文を土間の隅にそっと置いておいたのである。朝置いたのだが、店を閉める時にやっと見つけられたわけだった。あまりに誰も落ちている文に気がつかないものだから、市平太が見つけたふりをして番頭に届けようかと、今日一日、何度思ったか知れない。
「いいか」市平太は身を乗り出すように話し始めた。「書状の中身はこないだ話した通りだ」
書簡は、今の老中首座水野忠邦が記したものであった。
五年前、桧川屋が多摩の秋川という所の山林から材木を買った。妙に安価であったが、それは、土地の庄屋が借金に困って山の木々を安く売り払ったためであった。だが、村民達から取引停止の訴訟が起きた。山は庄屋ひとりの所有物ではなく村人の共有する財産だから材木を勝手に売ってよいものではない、というわけである。せっかくの儲け話がご破算になりかねない状況に、旦那の六左衛門はつてを頼って水野忠邦に泣きついた。忠邦は(賄賂の効果もあって)すぐに動いて、勘定奉行に訴状を握り潰させた。おかげで桧川屋はずいぶんな儲けが出た。当時は店全体が浮き立つようだったという記憶が市平太にある。
書簡にはその一連の流れと訴えが棄却されたことが記され、安堵するようにという一文が添えられていた。
権力者が力を誇示して不正を行うなどは至極当たり前のことではあるが、水野忠邦にとって今は間が悪く、軌道に乗り始めた改革を頓挫させるわけにはいかない重要な時期だ。権力を持つ者の常で、その座から引きずりおろそうと手ぐすね引いている者は数えきれないであろう。そういう政敵にとっては大きな価値のある書簡だ。
六左衛門も呑気に見えて抜け目がない。揉み消しが露見した時の対策として、水野に切り捨てられないように一筆書かせていたのだろう。
「そんな重要な書状を利用しなくてどうする」
「どう利用するのよ」
「店から金をふんだくってやるのさ」
「ふんだくるって、あんた」
「この書状を種にして強請ってやるのさ。内容を世間にばらされたくなければ、五百両用意しろ。投げ文にはそう書いてあるのさ」
「五百両だって?それじゃ立派な悪行じゃないですか。私は書状を隠して皆をあたふたさせれば満足だったのよ」
「いいか、考えてもみろ。俺達が汗水たらして一生働いたって五百両なんてそうそう溜まるもんじゃない。ほとんどがあのぐうたらな旦那や性悪なおかみの懐に入るんだ。俺はただ、自分達が働いた分を返してもらうだけだ」
「そううまく行くわけがないじゃないの。昔、八王子の父さんが言っていたわ。人間、まっとうに稼ぐのが結局は一番儲かるんだって。悪い事をして手に入れた金は、一時は大儲けしたように見えても、すぐに流れていってしまう。大水が家や人を流してしまうように、すっかり無くなってしまうもんだ。真面目に欲を持たず生きる者が最後には得をするんだ、そう言っていた」
「そりゃ嘘だ。子供のための教訓というもんだ。現実は汚くなければ金儲けはできないし、貪欲な人間でなければ幸せにはなれない」
「市さんのご高説なんてどうでもいいの。私、お奉行所が出てくるのが心配なのよ」
「ああ、奉行所には報せるなと書いておいたが、きっと報せるに違いない。八丁堀や岡っ引を出し抜く方法を考えなくっちゃなあ」
「今から考えるの?あきれた」
「そう言うな。うまく五百両せしめられたら、所帯を持たねえか。ふたりで上方にでも行ってよ、なんか商売をして暮らそうぜ」
綾は口を噤んだ。
――市平太さんと夫婦になる……。
考えたことがなかったわけではないが、それはけっして真剣な考えではなかった。ただふっと頭をよぎって数瞬後には忘れている、ちょっとした妄想でしかなかった。
――急に言われても、そんなこと考えられない、今はまったく考えられないわ。
ふと気がつけば、市平太の眦が吊り上がって、瞼が半分下がって、その間から覘いた瞳に、今にも食いついて来そうなぎらぎらした光が滲んでいる。
はっとして綾は立ちあがった。
情炎を吹き消された形になった市平太はむっとした顔で綾を見あげた。
「私、帰るわ。今ならまだ間に合う。強請なんて馬鹿な真似、やめておくことね」
長屋を出て行く綾の背に、舌打ちが飛んで来たのだった。




