三の四
市平太は奥に据えられた帳場箪笥を眺めた。いつも邪魔に思えるほど大きく存在感放つ箪笥であったが、今日に限って層倍の圧力持って市平太の前に聳えていた。
帳場箪笥は市平太の肩くらいの高さがあり、奥行きは一尺半くらいある。半分くらいで上下二段になっていて、下の扉の鍵は大番頭が持っている。大事な書簡を誰が手にするかわからない場所に置いておくわけはないから、旦那の鍵で開く上の扉の中にあるはずだ。
鍵を開け扉を開くと、市平太は見るのが初めてだったが、右側に引き出しが五段ほど並んでいて、左側は開き戸が付けられていた。この中から目当ての、たった一通の書簡を見つける頃には日が昇ってしまう。だが、ある程度の見当がついていた。
――大事な書簡なら、帳場箪笥の中に、さらに文箱に入れてでもいるのではないか。
そんなふうに考えていたのだ。
左側の扉を開いてみると、桐の文箱がふたつ、漆塗りの文箱がひとつ見つかった。
人が近づいて来ないか、絶えず気を張って耳をすましていたので、体中ひどく緊張していた。手も膝も震えが止まらない。
一番豪華そうに見える漆の文箱から開いてみた。中には数通の書簡があった。開いて手燭の明かりに照らして読んでみても、勘定奉行所とのやり取りをしたものや、作事奉行や普請奉行からの手紙ばかりで、重要かもしれないが、幕閣の重要人物の進退に関わるような物には思えない。そして五通目の書簡を読んで、市平太は鼓動が高鳴るのを感じた。
――これだ、この書状に間違いない。
その書簡を巻きなおして懐に入れ、懸紙だけ他の書簡といっしょに漆塗りの文箱に戻しておいた。中をひらいて検めないかぎり、しばらくは中の書簡が盗まれたと露見することはないだろう。
――こいつは思っていた以上にとんでもない価値があるぞ。
市平太は興奮した気持ちを落ち着けるために、何度も息を深く吸って吐いた。
綾はこの書簡を隠して、旦那やおかみが慌てふためくのを見たいのだろうが、そんな子供の悪戯のようなことで終わらせるのはもったいないような気が市平太に兆した。
どうにかしてこの書状をもっとうまく活用しよう。だがその思案を練るのは置いておこう――。
これからまだ鍵を返しに離れに戻らなければならない。市平太はさらに深呼吸を繰り返して、高ぶる気持ちも震える体も鎮めると、帳場箪笥を閉めて、ふたたび離れに戻った。
部屋の前に来ると、ふたりの息遣いがさっきよりももっと荒く乱れていた。綾の喘ぐ声が高くなり低くなり、市平太は耳を塞ぎたい気分であった。綾がどういう行為をしているのかを見るのも嫌だった。そっと開けた戸の隙間から、顔を背けた格好で手を突っ込んで目いっぱい伸ばし、ふたりが交わっている場所のなるべく近くに鍵を置いた。こうしておけば、その内綾が気づいて鍵を元あった場所に戻すだろう。
母屋に帰った市平太が、台所口をあけると、暗闇の中に人が立っている。心臓が止まったかと思えるほど驚愕して、ひっと引きつったような悲鳴をあげて体を仰け反らせた。
まったくの油断であった。もう計画を終えた安堵感から気を緩めてしまっていた。
「市かい?何もそう驚くことないじゃないか」
暗闇の中の影が言った。おかみのお金であった。
「あ、おかみさんでしたか。へ、へえ、厠に行っておりまして」言いながら、高鳴る鼓動を押さえるのに必死だった。
「帳簿の書き付けは終わったのかい?」
市平太が離れに行っていたのを感づかれた様子はない。
「ええ、あらかたは。もう少ししたら寝さしていただきます」
「そうかい、明日の仕事に障るから根を詰めるんじゃないよ」
普段されたことのない気遣いをされて、市平太は奇妙な気分であったが、外に出て行くおかみを通すと入れ替わりに中に入った。おかみは厠にでも行くのであろう。離れに近づくことはあるまい。おかみは六左衛門と綾の関係は知っている。今日も夫が妾を抱いていることもわかっている。わかっていながら、内心はどうあれ、表面上は平然と振舞っているのであった。
あまりに手が震えて、いつまで経っても燧で火がつけられず、しかたがないので市平太は消えた手燭を持って手探りで帳場まで帰って来た。帰って来てもしばらくは膝が震えていた。そうして冷たい汗を全身にかいていることに気付き、震える手で額を拭った。
――これで終わった。
深く吐息をついた。吐息さえも震えている。
――いや、これからだ。これから懐にあるこの書状を使って、旦那もおかみも大番頭も、皆を震え上がらせてやろう。




