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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第三章 女と男

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三の三

 市平太は台所の土間に裸足で降り、裏口の戸を開け手燭の火を消して裏庭に出ると、裏庭に満ちる闇に身を押しつぶされるような感覚がした。

 桧川屋はすでに寝静まり、おかみが枕行灯さえも油の無駄だとつけさせない店の中には、夜空から忍び込む月明かりくらいしか光は存在しなかった。

 通いで店に働きに来ている市平太は、仕入れの帳簿がはかどらないと嘘をついて店に残って、今までひっそりと帳場で適当に帳付けをしていた。

 そうして四つ(午後十時)頃になるとそっと裏庭に出て来て、音を立てぬように下駄も履かずに、神経をすり減らすようにして、旦那の六左衛門が寝間に使っている離れ家まで歩いた。

 桧川屋で今、唯一、人の息遣いが感じられるのはここくらいなものであった。


 綾の練った企てはこうであった。


 店の帳場箪笥には、何か重要な書簡が隠してある。

 書簡は幕閣の重鎮から送られた物で、その重鎮の浮沈にかかわるほどの内容が書かれてあると言う。それはただの噂ではなく、綾が直接旦那の六左衛門から寝物語で聞いた話であった。

 ――あれが世に出ればその幕閣の人物は慄然とする、どころか落魄の憂き目に遭うだろう。

 そう言った六左衛門の口ぶりからは、その書簡さえ手元にあればこの店は安泰だという、自信と安堵のようなものが垣間見えた。

 それを手に入れて隠してしまえば、きっと旦那だけでなく店全体が揺らぐことになる。それほど重要な書簡である。


 しかしその書簡がしまってある帳場箪笥が問題だった。帳場箪笥は造りが頑丈で、旦那の六左衛門が肌身離さず持っている鍵がないと絶対に開けられないのであった。

 六左衛門は常に紐で吊るした鍵を首に掛けていて、はずすのは夜の営みをしている時くらいで、風呂に入る時でも、床に就く時ですら首に掛けたままで眠るのである。

 ――私と旦那がそうしている時が狙い目よ。

 綾は言った。


 市平太はふたりが睦みあう離れ家に忍び込み、六左衛門が首からはずした鍵を、綾が気づかれぬようにそっと渡す。鍵を受け取った市平太は座敷に行って帳場箪笥から書簡を盗み出し、鍵を返しに来る、という算段であった。


 そううまく行くものだろうか、という不安は当然市平太にあった。

 だが、やってやろうという気が強く湧いた。綾のように久吉の復讐のためではない、惚れている女に良い所を見せたいわけでもない、自分を(ないがし)ろにしてきた店の者達への、自分のための復讐であった。


 離れ家の、すでに雨戸が立ててある縁側の脇には戸があって、その前には沓脱石が置かれていて、下駄が二足並んでいる。音を立てないように慎重に市平太は戸を開けた。綾がそうしておいたのだろう、鍵は掛かっていなかった。

 中に入ってみれば障子の向こうから漏れる光もなく、こんな時でも吝嗇なおかみの目を気にしているのか、六左衛門は行灯を点けてもいない。市平太は真っ暗な縁側を這って部屋の前まで行くと、障子の向こうから、男女の荒い息遣いが聞こえてきた。

 そっと障子を開けて中を覗いた。

 暗黒の中に、さらに黒いふたつの影が(もつ)れて(うごめ)いていた。

 見えるはずのない綾の目がこちらを見詰め返しているように見えた。

 市平太は緊張と恐怖で震える手を、開けた戸の隙間に差し込んだ。手の届く場所に綾が鍵を置いてくれているはずだった。目いっぱい伸ばした手に、しかし温かいものが触れた。

 綾の手であった。

 彼女の手には冷たい物が握られていて、それを市平太の手を握るようにして、渡してきた。

 こんな状況で初めて触れた愛する女の手のぬくもりに、市平太は(つか)の間酔ったようだった。


 台所に戻った市平太は、なるべく音を立てないように細心の注意をもって(ひうち)石を使って手燭に火を灯し、元いた帳場には向かわず、隣の奥帳場へ入った。本来は店の主である六左衛門が使う部屋であるが、六左衛門はさほど仕事に熱心ではないため、ほとんど大番頭の弥兵衛が使っていた。ひと間置いた向こうの部屋におかみが寝ている。おかみの目が覚めないように祈る気持ちで奥帳場に入った。

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