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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第三章 女と男

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三の二

 大横川に出るまで、綾と市平太(いちへいた)は黙然としたままで歩いた。

 桧川屋のある深川島崎町から久吉の実家のある中之郷竹町まではちょうど一里(四キロメートル)くらいあって、いっしょに通夜に来た他の者は駕籠を拾って店に帰ったが、ふたりは歩いていたのだった。

 もう日は暮れていたし、市平太の持つ提灯の明かりの先には、海の底のような闇に沈んだ道が続いている。


 久吉の父親は四十くらいの体つきはがっしりとしていたが人の良さげな大工で、皆の前では気丈に振舞ってはいたが内心はどうであったろう。母親はもう流す涙も枯れ果てたように憔悴しきっていて、見ていられないほど憐れなものであった。


 葬儀の費用を桧川屋が出したので、夫婦は感謝しきりであったが、あの吝嗇なおかみが金を出したのは、いささかの悔悟の念があったからだろうか。

「そんなはずはないわ」

 綾はつぶやいた。

 あのおかみにかぎっては自分の罪を認めて謝罪する気持ちなど到底持ち合わせてはいやしない。あくまで世間体を気にして金を出したのであろう。


「何がそんなはずはないんだ」

 大横川に突き当たり、南へと足を向けて、ふたりはやっと話し始めた。

 問う市平太に綾は答えた。

「だって、おかしいじゃない。なんで久吉さんが死ななきゃならないのよ」

「なんでって、何か辛いことがあったんだろう」

「ええ、確かにこの間、おかみさんや大番頭さんにきつく叱られていたわ。でも久吉さんは、ずっと前を向いて生きていたわ。(いじ)められてもこの先は必ず良い日が来ると信じていた。そんな人が自ら命を絶つなんて」

「それが自殺というもんだ。一見元気で気丈に見えても、死んだ方がましだと思えるほどの苦しみに突然襲われる。心が丈夫な俺達にはわからんことさ」


 綾はその市平太の言い様が小賢しいと思った。

 知ったふうなことを言う市平太を、どうかして言い負かしてやりたいが何も言葉が出てこず、もどかしさだけが体に溢れてくるのだった。


「私、久吉さんを弟みたいに思っていたわ。八王子の実家には兄しかきょうだいはいなかったけど、弟がいたとしたらこんな子がいいなって。市さんもそうは思わなくて?」

「そうさな、俺は弟というより、自分の子共の頃みたいだってあいつを見ていた。何をするにも自信がなくて、いつもおどおどとしていてな」

「店の皆はそうは思っていなかった。自分達のせいで久吉さんは首を吊ったのに、みんな他人事みたいな顔して、私お腹の辺りがむかむかしていたの。通夜の間中、悲しさよりも怒りで頭の中がいっぱいでどうかなっちゃいそうだったわ」

「久吉は負けたんだ。世の中や周りの人に」

「わかったふうなこと、軽々しく言わないで」

 急に声を荒げた綾に、市平太は目を丸くして振り向いた。


「おかしいわ。世の中何かが間違っている。このまま店の皆が平気でいるなんて私許せない」

「お前が許そうと許すまいと、世の中は回り続ける」

「私、久吉さんに代わって、店の皆に復讐してやるわ」

「どうやって。お前らみんなのせいで久吉は死んだんだって、夕飯でも食べながら怒鳴りつけてやるのか」

「くだらないこと言わないで。もっとこう、店の全体が慌てふためくような」

「よせよせ」

「あの時、蕎麦屋で棒手振りの話を聞いて、誰かが復讐をした。そんなことができる人が、この世にはいるのよ。だったら、私達にも何か出来るはずだわ」

「おい、俺も巻き込むような言い様だな」


 綾は答えなかった。

 黙って、暗い道の先を、何か獲物を見つけた猛禽のように見詰め、どうやって獲物を追い詰めてやろうかと算段を練っているようであった。


「久吉さんのためばかりじゃない、私自身だって、うちの店に恨みがあった。いつか何か仕返ししてやりたいと思っていた。いつも人を見下して嫌みばかり言うおかみも、おかみに店を支配されているのに私ばかりを(もてあそ)ぶ旦那も、横柄で私の体をいやらしい目でみる大番頭も、いつかどうにかしてやりたいって思っていたのよ。あなただってそうでしょう、市さん」

 唐突に話の矛先を向けられて、市平太は鼓動が強く打ちつけたようだった。

「あなただって、旦那にもおかみにも大番頭にも認められず、もう番頭になってもいい歳なのに、いつまでも手代のまま飼い殺しにされて、くやしくないはずがないでしょう」

「そう言われてもな」

「必ず何か弱みがあるはずだわ。店全体を揺るがす何かが……」


 そうしてまた綾は、貝のように口を固く閉じた。

 闇の中、真っ暗な道の先を睨むまなこの奥深くから、ぎらぎらとした暗い輝きが滲み出ているようであった。

 やがて、ひとつの案を思いついた。

 胸中に浮かんだ計略をまとめていると、ふと、自分が(ひど)く汚い人間に思えてくるのであった。

 ――私は今この男の気持ちを利用しようとしている。利用して悪に引きずり込もうとしている、蟻地獄のような女だ。

 市平太が綾に思いを寄せていることは、ずっと以前からわかっていた。その純粋な気持ちを弄ぶようなものであった。


 そうまでして成さねばならぬ大事なのか、と自問しても返ってくるのは、やらねば久吉が浮かばれないという、義憤のような不確かな感情であった。


「市さん」

 綾は静かに、しかしどこか決然とした思いを滲ませた声で市平太を呼びとめた。

 市平太は立ち止まり、そっと振り向いた。市平太は背筋にぞっと悪寒が走った。

 提灯の淡い光に浮かび上がる綾の顔は、目が座り感情はどこにも見えず、まるで幽鬼か何かのようであった。

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