三の一
深川島崎町の材木商桧川屋で、久吉という丁稚が首を吊っているのが見つかったのは、梅雨に入ったばかりの頃であった。
柿沼秀之介は、じっとりと湧き出る汗を手ぬぐいで拭いながら桧川屋に向かった。汗は拭けども拭けども次々に湧いて出て来るから切りがない。
桧川屋は大横川沿いにあって店構えは大きく、間口は十間もあるし、秀之介が通された部屋からは土蔵が見えた。所の御用聞き勇蔵はすでに到着していて、店の者からあらかた聞き込みを終えていた。
久吉は裏庭に植えられた松の枝で首を吊っていたそうだ。子供の遺体はもう降ろされて布団に寝かされて顔には白布が掛けられていた。秀之介は片手拝みに拝んで、布をとって、首の縄の痣を見た。
「あっしが来た時には、もうすでに店の者に降ろされた後でして」なぜか申し訳なさそうに報告する勇蔵であった。
「吊るしたままにしておくのも忍びなかったのだろう」秀之介が答えた。「首の縄の痕に不審な点はないようだな」
「ええ、体も調べましたが、他に痣とか傷のようなものもありませんでした」
誰かが無理矢理首を吊らせたとしたら、体のどこかに異常が見つかるはずであった。
「吊っていた場所を見に行こう」秀之介は立ち上がった。
裏庭の隅に枝を広げる松の木は大振りで、枝も太く、子供が首を吊ったくらいでは折れそうもないほどであった。枝には、途中で切られた縄がまだ垂れている。切られた輪の方は松の根元に捨てられていた。
「お誂え向きに根元に庭石が置いてあるのか」と秀之介は地面の石を見、枝を見あげた。「これなら、確かに子供ひとりで首がくくれそうだな。店の者で何か見ていた者はいなかったか?」
「朝になったら首を吊っているのを発見したそうで、首を吊る瞬間はもちろん久吉が外に出る気配にすら気づかなかったと」勇蔵はそっと周りに店の者がいないのを確かめた。「それよりも気になることを言う女中がいまして」
「と言うと?」
「店の者は一様に久吉に不審なことはなかった、死ぬなんて考えられない、とまあありきたりな受け答えでしたが、ひとり、綾という女中だけは、変に冷静でしてね」
「ほう」
「久吉は苛められていた、店の小僧仲間からだけでなく、おかみや大番頭からもいびられていた、なんて言うんです。先日もおかみと大番頭に、お前のような無駄飯食いに用はない。死ね、死んでわびろ、と罵られていたそうで」
「苛めを苦にしての自殺か。店の他の者は、店の体裁を気にしてか、主やおかみの目を気にしてか口を噤んでいるというわけだな」
腕を組む秀之介の月代に冷たい物が当たった。見上げれば鉛色の空から、小粒の水滴がぱらぱらと降り始めて来ていて、秀之介は顎をしゃくって勇蔵を縁側に誘った。
「苛めの証拠が明らかになったとしても、せいぜいお奉行からきつく叱られて終いだろうな。やりきれんなあ」
秀之介は頭を掻いた。
「あの丁稚小僧はいくつだ」
「十二だそうで」
「お雪とたいして変わらん齢の小僧が、首を括るなんてよっぽど辛かったにちげえねえ。子供が人生を悲観するなんて、考えられるか?」
「あっしは能天気な餓鬼でしたからねえ」
「俺もだよ。子供ってもんは将来に夢見るものじゃねえのか。それが絶望に変わるほどの苦しみに襲われた。辛かったんだろうな」
久吉が寝かされた居間に上がって、秀之介は念のためもう一度、首の辺りを調べてみた。そこへ、おかみが顔を出した。茶の盆に、紙に包まれた楕円の平たいものが添えられている。秀之介は黙ってそれを懐にしまい、茶を飲んだ。
「で、いかがでしょう」痩せて前歯がちょっと出たおかみは訊いた。
「まあ、自害ってことで間違いはないだろう」
「もう、片付けてようございますか」
おかみはちらと久吉の遺体を見て言った。まるで汚い物を置いておくのが煩わしいとでも言いたいような言い方であった。
「一応医者に検分させるから、もうしばらくこのまま置いておいてくれ」
「そうですか」
確かにこのおかみなら、奉公人を苛めたりこき使っているように思える。むかっとした嫌な物が秀之介の腹の奥に湧いた。
「奉公人は物か道具かい?」
秀之介の刺々しい唐突な問いかけに、おかみは戸惑うようであった。
だが、秀之介はそれ以上何も言わずに腰を上げ、勇蔵に後を頼んで桧川屋を後にした。何を言ってもあのおかみの胸には届かないだろう。金を払って年季奉公に雇ったんだから雇い主の好きにして何が悪いくらいなことは平然と言いそうだし、説教したところでかえって憎まれるくらいなものだ。それに分別臭いことを言うのも柄ではなかった。
秀之介は首をすくめるようにして、梅雨の入り端の細雨の中を、小走りに走った。




