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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第二章 深川の人々

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二の五

 熊谷(くまがい)屋の内所に佐源次(さげんじ)が座ると、女郎のお仲が襖の向こうから顔を出して、

「お(なみ)ちゃんに会うだけじゃなくって、たまにはあたしと遊んで行ってよ」

 そんなことを言った。丸顔をした鼻の上向いた顔だったが、愛嬌だけはある年増女だった。

 熊谷屋は女郎が五人ばかりしかいない小さな女郎屋でお仲は一番の年嵩だった。昼だからまだ客は少ないが、昨今の改革で江戸市中の岡場所が軒並み潰され、ここ品川まで足を運んでくる客が増え、小さいながらも繁盛している店だった。


 佐源次は照れたように笑っただけで答えもしなかったが、お仲は気にする素振りもなく梯子段を上がって行って、お波ちゃん、またお兄さんが来てるわよ、と大声で呼んだ。

 お仲と入れ替わりに降りてきたお波は、棘が突き出したような歩き方で、

「もううんざりだわ」

 佐源次の前に座るなりつっけんどんな調子で言った。

「どうしたんだ」佐源次は妹の顔色をうかがった。

「兄さん、今日こそははっきり言わせてもらうわ」


 お波の元来から吊り気味の目の端がさらに吊り上がったようだった。

 妹のその尖った目や丸い鼻の頭や厚い唇を眺めて、ずいぶん女らしくなったものだ、などと佐源次は脈絡もなく思った。お波ももう二十二になるのに、そんなことが何故今さら唐突に頭をよぎるのか、佐源次にはわからない。


「もうここには来ないで」

「今日はずいぶん機嫌が悪いんだな」

「機嫌の問題じゃあないのよ。私、ずっと考えていたことなのよ。いつか言わないとと思いつつ、わざわざ深川から会いに来てくれるから悪いなって気持ちになってしまって、今まで言い出せなかったの」

「そうは言っても、お前、兄が妹の無事を見舞いに来て悪いことがあるか」

「あるわ。おかしいのよ。うちはうるさくないからいいけど、親兄弟が女郎に会いに来るのを禁じてる店だって普通よ。だいたい、ここに私を売ったのは兄さんでしょ。その当人がしれっとした顔をして売った妹の所に会いに来るなんておかしいことだわ」


 佐源次は言葉に詰まった。

 六年前、長く患っていた父が他界し、母も看病疲れがどっと出たものか体の調子を崩した。父の薬代でもう家の貯蓄は底をついていたし、当時十八でまだ根付職人として独立もしていなかった佐源次は途方に暮れた。それで、苦渋の思いで妹を女郎屋に売ることにしたのだ。吉原は知り合いがいつ来るかわからないからどうしても嫌だとお波が言うものだから、深川から離れた品川の女郎屋にしたのであった。


「けどお前、あの時納得してここに来てくれただろう」

「納得?納得なんてするもんですか。私は嫌だったわ。でも兄さんがもう金がなくって生きていけない、このままじゃ家族全員で首を(くく)るしかない、そんなことを必死な顔して言うもんだから、私、泣く泣く売られてきたのよ。納得なんてしやしないわ」


 涙を目の端に溜めながら話す妹の顔をもう見ていられなくなって、佐源次はそっぽを向いた。向こうの板の間で煙草を吸いながら心配そうに、なかば好奇心混じりの顔でこちらを窺っていたこの店の女房と目が合った。女房はさっと目を逸らした。


「私、兄さんに言ってほしかったの」お波は続けた。「これから家は苦しくなるけど、きょうだい力を合わせてやっていこうじゃないか。しばらく苦労すれば、きっと暮らしは良くなる。それまでの我慢だよ、って。それが苦労する前から、平然と妹を女郎屋に売り飛ばして。おっかさんだって、あれからすぐに逝ってしまって。私の身の(しろ)まるまるあんたの懐に入ったんじゃないの。腹が立つったらないわ」


 佐源次は返す言葉もなく、うなだれて熊谷屋を後にした。

 嫌な客の相手をして憤懣が溜まっていたぐらいのことかもしれないが、お波の腹の底にずっと鬱積していたものが、一度に噴出したという感じだった。

「すまねえ、ほんとうにすまねえ」

 佐源次は口の中でつぶやいた。


 身請けしようにも、そんな大金は今の佐源次にはまるで当てのないものだった。根付職人としてこつこつ働いたところで、食っていくだけでかつかつだったし、勇蔵親分の手下として働いたところで小遣い程度の給金しか貰えはしないのだ。


 お波がいい客と出会って引かれてくれれば一番ありがたいが、六年働いてもそんな男が現れた様子もない。一生女郎として生きていくばかりか、病気でも移されて苦痛の中で死んでいくかもしれないことを想像すると、佐源次の胸は臓物を捩じりあげられたように(つら)くなる。


 ――金さえ手に入れば⋯⋯。


 佐源次は陰気に曇った顔で歩いた。

 女を買いに来たのだろう、賑やかにすれ違う男達が、やけに恨めしく思えた。

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