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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第二章 深川の人々

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二の四

 働いている蛤町の仕出し料理屋水波(みずなみ)を出ると、貞八(さだはち)(うつむ)き加減で家路についた。

 貞八に怒られぬ日はない。

 毎日必ず花板から何かで怒られる。焼きが甘いだの魚をおろすのが雑だのと指摘されるのはまだいい。料理人として励まねばならぬ所だ。だが、急いでやればもっと丁寧にしろと言われ、丁寧にやればもっと手早くやれと言われる。今日なぞは包丁の置き方が悪い、などとその程度のことでそれこそ包丁で刺すような叱り方をされた。そうしていつも最後に決まって言われる、

 ――そんなんだから二十七にもなって焼き場しか任せられねえんだ。


 すでに同じ時期に年季奉公を始めた同じ歳の才助(さいすけ)は脇板として花板を助けている。要領が良く見栄えも良い才助は、貞八と同じ失敗をしたとしても怒られることはない。小男で見た目が冴えない貞八は悪目立ちでもするのだろうか、とにかく何かにつけて(とが)められるのだからたまらない。


 そういう花板の態度は店全体に伝播する。貞八は板場仲間からばかりでなく追い回しや女中にすら(あなど)られていた。体が小さくやせぎすで目ばかりがぎょろぎょろとしているものだから陰で鼠とかねず公とか呼ばれていることも知っている。


 料理の腕はけっして才助に劣りはしないという自負はある。だが、欠点しか人の目につかず、誰からも軽侮される貞八に出世の機会は巡っては来ない。


 今日は夜の注文がなく七つ(午後四時)に上がりだから、帰りがけに一杯ひっかけるかと思っていたのに、そんな気も失せた。


 もやもやとした鬱屈を腹に抱えたまま、気がつけば富久町の長屋に着いていた。

 貞八は入口の前でひとつ溜め息をつくと戸を開けた。

「おっかさん、帰ったぜ」

 中に声を掛けると、お帰りと蚊の鳴くような返事がした。

 むっとするような空気が部屋いっぱいに(よど)んでいる。

「なんでえ、今日は天気がいいから開けておかなきゃ駄目だろ」

 貞八は六畳の部屋に上がると、布団に寝ている母親を避けて、奥の戸を開けた。戸を開けたからと言って、目の前は板塀があるだけだから、風通しが良くなるものでもないが、かといって閉め切ったままでは病人の体に悪そうだ。


 母の(たみ)は病気ではあったが、寝たきりというわけでもなく、洗濯もすれば飯も炊くのであるが、今日はあまり調子がすぐれないのだろうか。

「どうした、体がだるいのか」

 枕元に座って訊く貞八に民は、

「ううん、そうだねえ」

 と舌を動かすのも億劫なように答えた。

 つんと口の臭いが鼻を突いた。

 ――年寄り臭い息を吐くようになった。

 母の最近の口臭を嗅ぐたびに貞八は思う。ちょっと前までは甘い良い匂いの息をしていたのに。


 思えば息が臭うようになってから母の体も悪くなっていった気がする。何かの兆候だったのかもしれない。民はどこかが痛むとか血を吐くとか、わかりやすい症状があるわけではなかったが、体の中のどこかが悪いのは確かで、徐々に体全体が弱って行くようだった。日々衰えていく母を見ているだけというのは、息子の貞八にとってはつらいものがあったが、評判の良い医者に診せる金などないから、このまま弱って死んでいくのをただ待っているようなものであった。


「今日は早かったね」母の声はかすれていた。

「ああ、夜の注文がなかったからな」

「そうかい、じゃあ、夕餉の支度でもするかね」

 起き上がろうとする母を貞八はとめた。

「いいよ、俺がするから、おっかさんは寝てな」

「だってお前、仕事で疲れてるんだろ」

「今日はそんなに忙しくなかったからな、でえじょうぶだよ」

 と土間に下りたが、朝炊いたご飯が残っているくらいで他に食うものが何もない。

「ひとっ走り行って何か買ってくらあ。おっかさん、ちょっくら待っててくんな」


 さて今日は何を食おうか。昨日は(あじ)を食った。毎日同じではいくらなんでも病人の体に悪いだろう。

 ――俺に甲斐性があれば……。

 独立して店を開き、嫁をもらって、もっと風通しのいい大きな家に住めるだろうか。おっかさんを名のある医者に診せて、もっと長生きさせることもできるだろうか。

 貞八はとぼとぼと路地を歩いた。

 どこかの家から漏れ聞こえてくる、母と子の笑い声が、妙に(しゃく)に障るようだった。

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