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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第二章 深川の人々

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二の三

 別段信心深いというわけでもないのだが、ふと気が向いて、音吉(おときち)は通りかかった深川神明社の鳥居を潜った。

 近所にあるとはいってもさほど縁はなく、鳥居の前を通ることすら稀であった。

 もう日暮れ時で境内には人影はまるでないようだったが、参道を大股に歩いて拝殿に向かうと、ふと、ふたりの老人がいることに気がついた。


 老人達は夫婦であろう、脚の悪い杖を突いた妻を、夫が背中に回した片腕で腰を抱きしめるようにして支え、拝殿前の石段を一段一段ゆっくりと下りていた。近所の長屋にでも住んでいそうな老爺と老婆で、背が曲がっているのかふたりとも前かがみで、よたよたと石段を下りるのだ。そこには、男女が人前で肌を寄せ合うなどみっともないなどという浅薄な道義はなく、ただ長年連れ添ってきた妻を夫が慈しむように支えてやっているように見えた。ひとり者の音吉にはわからない、仲睦(なかむつ)まじいとか夫婦愛などと言ってしまうと酷く陳腐な、言葉では言い表せない深いつながりのようなものがふたりの間にあるようだ。


 音吉は何か手を貸してやろうという気が湧いたが、しかし、何をしてやればいいのかわからない。巾着切りなどという後ろ暗い世界に生きてきた者の思考の限界なのだろうか。これが堅気の人間だったら、何の躊躇(ためら)いもなく手を貸してやるのかもしれない。

 思いを巡らせつつ、老夫婦を横目で見やりながら、下りるふたりとは反対に石段を上がり、はて手を叩くのは何回だったかなと思いながら、ひとつ手を打って拝んだ。せっかくだから、今の老夫婦の長寿を祈願してやった。


 別に帰ったってやることなどありはしない。音吉は暇つぶしに境内の木を眺めたり、狛犬の顔を見詰めたりしてけっこうな時を過ごしたが、それでも振り返れば、やっと老夫婦が鳥居を出て行くところであった。

 すると、ちょうど小走りに通りかかった職人風の男がふたりに軽くぶつかって、

「おう、気を付けろ、おいぼれっ」

 横柄に怒鳴りながら走っていく。

 老夫婦はよろけて鳥居にすがりつくようにして、どうにか転ばずに済んだようだが、すがりつきながらも力が抜けた様子でずるずると地面にへたり込んだ。


 音吉はふたりに駆け寄った。

「おとっつぁん、おっかさん、大丈夫かい」

 声を掛けられて、刹那戸惑った老夫婦であったが、音吉ににっこりとほほ笑んだ。

「ええ、大丈夫さね」夫の方が答えた。

「まったく、乱暴な野郎もいたもんだぜ」

 言いながら音吉は、老爺を支えて体を起こしてやり、

「おっかさんはどっか打ってやしねえかい」

 老婆の脇に手をそえて立たせてやった。

「いやいや、助かったよ、ありがとうよ」

 老爺が言って、老婆が微笑みながら頭を下げた。そうしてまた老爺が老婆を支えて歩き去って行った。


 と、音吉は(たもと)の中に紙入れが入っているのに気がついた。

 助け起こす時に、老爺の懐から覘いていたのを、我知らず掏っていたのだ。

 たちまち、音吉は自分がみじめに思えた。

 あるかなしかの蓄えを切り崩して生きているようなあんな老人から金を盗み取るなど、我ながらなんとあさましく無様な習癖であろうか。


 音吉は紙入れを握りしめ、顔をぎゅっとしかめた。

「とっつぁん」音吉はふたりを追いかけた。「これ、落としていたぜ」

 おや、という顔を老爺はして、

「そんなもの、助けてくれた礼に取っておいてくれて良かったのに」

 そんなことを言うのだ。

 その言い様に、この爺さんは紙入れが掏られたことに気づいていたのではないか、という気がした。音吉はますます自分が恥ずかしくなってきた。昼間なら、真っ赤になった顔をふたりに見られていたかもしれない。

「そ、そういうわけにはいかねえよ」

 音吉は紙入れを老爺の衿元にねじ込むようにしてつっこんだ。

「じゃ、じゃあな、達者でな」


 あまりの羞恥にこれ以上この場にいることが耐えられず、音吉は踵を返して足早に立ち去った。背中に注がれる夫婦の視線が刺さるようであった。振り返るのも恥ずかしい。


 ――もうやめだ。


 音吉は胸に誓った。

 巾着切りなど、金輪際やるものか。俺ももう四十だ、いい区切りだ。きっぱりと足を洗ってこの家業を捨てるぜ。寿命まで生きてもどうせあと十年、長く生きても二十年かそこらの人生だ。残りの年月だけはまっとうに生きてやる――。

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