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からみ糸 ―深川つみびと物語―  作者: 優木悠
第二章 深川の人々

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二の二

 夕餉の支度をあらかた整え終わり、(あや)は吐息と共に背を伸ばして腰を指で押さえた。指で押した所から、疲労感がじんわりと湧き出て抜けていくようだった。

 材木問屋の桧川屋は主の六左衛門(ろくざえもん)とおかみのお(かね)、番頭三人、手代四人、丁稚が八人いて、女中は四人と大所帯であった。通いの者もいるから全員分というわけでもないのだが、それでも育ち盛りの子供が八人もいるのだから、毎度の食事の支度をするだけで女中達はてんてこ舞いである。

 他の女中達はひと休みに行ったり他の仕事をするために勝手から散っていき、綾はひとりで茶でも飲もうと急須に湯を入れていると、主の六左衛門が廊下から中を覗いて、

「今夜頼むよ」

 とひとこと言って返事も聞かずに去って行った。


 五十八になる老人の夜の相手をするのも億劫ではあったが、ここを放り出されると江戸には頼る(よすが)がないから、綾は従うしかないのであった。十四で女中としてここに来、十八で六左衛門の手がつき、今はもう二十一になった。手がついてもどこかに寮を用意して囲われるということはなかった。六左衛門が吝嗇だと言うこともあるが、そんな話が出たとしても綾は断っていたであろう。老人の妾として穏静な暮らしを送るよりも、手にあかぎれを作って働く方がよっぽど人として生を実感できる。そうして妾としておかみに睨まれながらも店で働き続けた年月は、長いようで短いような、しかし、けっして楽ではない毎日だった。


 溜め息をつき、(びん)の辺りを指で掻いていると、ふと、外で声がするのに気づいた。声は甲高い子供の声で、感情が高ぶったように大きくなったり、辺りを(はばか)るように小さくなったりを繰り返している。


 立って土間に下りて勝手口の戸をちょっと開けて覗くと、土蔵の前で丁稚達が言い争いでもしている様子だった。いや、言い争いならまだよかったが、三人の子供がひとりを(なぶ)るように責めているのだ。


 三人は、鶴松(つるまつ)が他のふたりを従えている仲間であった。(いじ)められているのは久吉(きゅうきち)だった。鶴松は旦那の親戚筋の子でいわゆる子飼いの丁稚で、久吉よりも一年遅く奉公に入ったが、その血筋と高慢な性格から、先輩の久吉を軽侮しているところがあった。久吉も気が弱いからひとつ年下の子供に(なじ)られるとすぐめそめそとする。


「余計な口出しをしやがって」鶴松が久吉に詰め寄った。「いいな、二度と旦那様の前で俺に偉そうな態度をとるんじゃない」

 他のふたりも、言い返さない久吉に向かって何か罵っているようだ。情けないとかみっともないとか言うのが聞こえる。久吉は前掛をぎゅっと握って涙をこらえてでもいる様子だ。


 これが子供どうしの、ただの喧嘩沙汰なら放っておく所だが、数人で寄ってたかってひとりを苛めるのは面白くない。綾が止めに入ろうと戸に手をかけるのと、三人が去って行くのが同時であった。


「こういう奴を愚鈍と言うんだぜ」鶴松がどこかで大人が言うのを聞いて覚えたのだろう、何か高尚な言葉でも使っているように優越感に浸った調子で言うのだった。それに合わせて他のふたりもどっと笑った。


 三人が建物の角へ姿を消したのを見届けると、綾は久吉に手招きした。

「あんなのをいちいち気にするんじゃないわよ」近づいて来た久吉に綾は言った。

「はい、今だけですから」と久吉は涙を溜めた目でにっこりと笑って、「鶴松さんはいつか自分の家に戻りますし、他のふたりも年季が明ければいなくなりますから。嫌なことは眠って忘れます」

 そんなことをたどたどしく言うのだった。

「久吉さんは偉いのね」

 綾は心底この健気な少年の事をそう思った。綾なぞは、何事も根に持ち、受けた恩も忘れなければ一度持った恨みも忘れないといった性分で、子供の頃に近所の悪餓鬼から言われた侮辱的な言葉だって、何かの折に兄にぶたれたことだって、いまだにふとした時に記憶が蘇ってきて、ひっぱたきに行きたくなるくらいだ。

 将来を見て、過去の苦痛を忘れようと努力する久吉という少年はただ愚図で気の小さな少年ではないようだ。内にある鷹揚なその性格に、綾は何か微笑ましい気持ちになってくるのだった。


「お茶でも飲む?」

「いえ、まだお店の掃除が残っていますから」

 と久吉は勝手には入らずに路地から表へ回って行った。

 そうして久吉が去って、板の間に戻って茶の入った湯呑みを持つと、今夜老人の相手をしなくてはならないと思い浮かんだ。

「今だけですから、か……」

 私の苦労はいつになったら終わるのかしら、と深い溜息をついた。

 手にした湯呑みの茶の面に吐息がかかってゆらゆら揺れた。

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