Part12:可愛いカップが欲しいな、なんて
「まぁぁぁぁぁぁぁじで面倒臭ぇ!!」
そう叫んで、マイカ先生は机に突っ伏した。額の骨が天板に当たって、振動でお茶を注いだカップが揺れた。
例の事件から早やひと月。昼下がりのカートレット邸に、マイカ・ホワイト先生が訊ねてきた。
さすがに遠出とあってデイドレスを着ていらっしゃったけど、服のあちこちにはシワが見て取れる。でもそれ以上に、一層濃くなった目の下の隈が、先生の疲労ぶりを如実に表していた。
とはいえ、先生がこうなってしまった原因はおおむねわたしにあるのだ。向かい側に座る先生に向けてわたしは頭を下げた。
「申し訳ありません。緊急のこととはいえ、先生に無理をお願いしてしまいました」
他にやりようが無かったとはいえ、先生は独断で自作の自由使用の許可を宣言してしまった。
当然その宣言に出版社の意向は反映されていない。悠長に話し合いをするなど不可能な状況だったとはいえ、出版社も営利企業なのだ。作品の扱いには先生以上にシビアになっている。
ましてや『黒樫の騎士団』は狂気的なファンすら生み出す大人気作。その二次創作を好き放題に作られてしまったら、原作の売り上げに影響を及ぼしかねない。
事情聴取が終わるやいなや、先生は半ば拉致されるように出版社へと引き摺られていってしまった。
わたしと奥様にできたのは、せめてカートレット家と関わりのある弁護士に連絡して、先生が法的リンチに遭うのを阻止することぐらいだった。
今でも弁護士を挟んでの出版社との交渉は続いていて、早く次の作品に移りたい先生としては面倒で仕方ないらしい。
「シライナちゃんに謝られる義理はないよ。あんたは命の恩人だ」
ゆっくりと頭を起こしながら先生が言う。「当然よ」と隣に座っていた奥様が言った。手にはヘルミのカップをつまんでいる。
「もとはと言えばマイカ、貴女がつまらない仕返しみたいなことを考えたのが原因でしょう? これからは上手な立ち回りというものを心掛けなさい」
澄まし顔で紅茶を啜る奥様に、頬杖をついた先生が言い返した。
「なーにが立ち回りだよ。ゴリ押しと力技しか知らないクセに」
「たいていの物事はパワーで解決できるわ。だからパワーが通用しない物事には、シライナみたいに器用な人をぶつけるの。スマートでしょう?」
「それができるのは金持ってるヤツだけだぜ」
「貴女も相当稼いだでしょう」
「まあな……なあ、シライナちゃん」
「ダメよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「ヘッドハンティングは許さないわ。シライナは当家のプライム・メイドよ。秘書が欲しいなら他を当たりなさい」
お二人の会話を聞きながら、わたしはちょっと気恥ずかしくなっていた。
「あ、あの、奥様。わたしはまだまだ未熟です。あまり実力以上の評価をされるのは……」
「シライナ」
カップをソーサーに置き、奥様が顔をこちらに向けた。射抜くような透き通った瞳がぴたりとわたしを捉えている。
「前にも言ったと思うけれど、自ら価値なしと称する者に、勝利は永久に訪れないわ。それとも、私やマイカはつまらない世辞を言う人間に見える?」
「滅相もありません!」
「でしょう?」
慌てて否定したわたしに、奥様はほんの少しだけ口元を吊り上げて見せた。
「相変わらず暑苦しいヤツだなぁ。まあシライナちゃん、あんたは十分な大立ち回りをやって見せたんだ。あの土壇場でね。もっと自分を誇っても良いはずさ」
わたしたちのやり取りを見ていた先生が、笑いながらそう言ってくれた。
お二人の言う通りだ。
わたしはちょっと、自分を誇るのが下手なのかもしれない。就活で苦労したのも、もしかしたら自己評価の低さがどこかで出てしまっていたのかもしれない。
もちろん、自分のどこをどう誇れば良いのかなんて、難しくて分からないのだけれど。
「なあ、シライナちゃん。ちょっと聞きたかったんだけどさ」
頬杖をついたまま先生がわたしに言った。隈の浮いた目が優しく細められていた。
「あんたは、自分がどんな風に幸せになりたいか考えたことはある?」
え? と口に出せたか分からない。それくらいわたしは動揺した。
そんなに難しい問いかけではないはずだ。たしかに漠然とした質問ではあるけれど、自分がどう幸せになりたいかなんて、誰でもイメージすることではないか。
でも、わたしはどうしても、自分の幸せというものが浮かんでこなかった。
「えっと……奨学金を返し終える、とか。ですかね」
「そりゃ目標でしょ? 幸せになるってのは状態のことさ。もちろん借金が無い状態ってのは大事だけどね」
「……じゃあ、旦那様にかけられた呪いを解くこと。お二人を新婚旅行に送り出すことです」
わたしとしては真面目に答えたつもりだけど、今度は奥様にズレを指摘された。
「私たちとしては有り難いけれど、貴女自身はどうなの、シライナ?」
「他の人間を大事にするのはもちろんいいことさ。だけど、自分自身の欲望に対してもっと素直になるのも同じくらい大切なんだよ」
「わたし自身の欲望、ですか」
手元のティーカップに目線を落す。
改めて考えると、わたしのなかには大きな望みのようなものは、無い。
そもそも何が幸せかなんて深く考えたこともなかった。不幸でさえなければ良い。何もかもほどほどで良いのだ。
それでもあえて言うならば。
「その……ヘルミのカップが欲しいな、と」
え? と二人が顔を見合わせた。頬と耳がカアッと熱くなった。
「じ、実は奥様のカップにちょっと憧れてまして……わたしも欲しいなぁ、なんて……」
「カップが欲しいって、そりゃまあ欲望かもしれないけど……いや、これ以上言うのは野暮ってもんだな」
縮こまりながら頷いた。
なんだかもう、恥ずかしくてこれ以上口をきけそうにない。
わたしなんかが言わなくても、奥様にも先生にも十分に伝わっていた。
わたしにとっての幸せは、自分にとって大切な人たちとこうしてお茶の時間を持つこと。
今はそれだけで十分なのだ。
満たされているからこそ、それ以上を望む気持ちになれないのかもしれない。
「なんとまあ、健気な娘だねえ。イルマ、大事にしてやりなよ?」
「当然だわ。まずはヘルミ社の株を買えるだけ買うところから」
「それだけはマジで無粋だからやめろ」
しばらく奥様は新聞の株式欄を引っ張ってこようとそわそわしていたけれど、玄関から旦那様の声が聞こえると「失礼するわ」と迎えに行かれた。
「あいつは相変わらず、幸せの形が分かりやすいよなぁ」
「本当ですね」
玄関の方から奥様の静かな、それでいてちょっと弾むような声が聞こえてくる。しばらくしたら旦那様が挨拶に来られるだろう。二人の会話から、今のところは猫モードのようだ。コートについた抜け毛を落とすためにしばらく掛かるだろう。
「……そうだ、今のうちに渡しておこうか。本当はこれが本命だったんだよ」
マイカ先生が鞄から一冊の本を取り出した。分厚く、装丁も無骨で、表紙には『エンリス戦記』と短く記されていた。
「これは……以前仰っていた歴史書ですか?」
「そ。引っ越しの準備中にたまたま見つけたんだ。あのバケモン共が本の山を崩してくれたおかげだね」
「あぁ……」
何がきっかけになるか分からないものだ。
「郵送でも良かったんだけど、せっかくなら直接渡そうと思ってね。役に立つかは分からないけど、好きに使ってくれよ」
「よろしいのですか?」
「いいっていいって。むしろこんな色気のないお礼になっちゃって申し訳ないよ。先に言ってくれたら、ヘルミのカップだって買ってきたのにさ」
そう言って先生は隈の浮いた目でウィンクした。これはもう、会うたびに揶揄われそうだな、と思った。
「あの、先生」
わたしはちょっと仕返ししてみようと思った。
「先生にとっての幸せって、何ですか?」
「小説を書くこと」
少しは困ってくださるかと思ったけど、全然ダメだった。
「あんなに大変な目に遭ったのにですか?」
「書くことはもっと大変さ。そして書かないともっと大変なことになる。言っただろ? 俺の頭のなかには劇場があるって。そこで演じられる演目をちょっとでも形にしていかないと、なんというか……自分の枠みたいなものが壊れそうな気がしてね」
そう言って先生は苦笑した。
「我ながら呪いみたいだな。でもシライナちゃんにも治せないし、治して欲しいとも思わない。そういう難儀なものなのさ」
「幸せと呪い、か……」
「ああ。思うに呪いってやつは、病気とはちょっと違うんじゃないかな?」
頭のなかにいくつかの言葉がぐるぐると浮遊し始めた時、扉が開いて猫の頭の旦那様と奥様が入ってきた。
⭐︎⭐︎⭐︎
マイカ先生を迎えての晩餐のあと、わたしはコッツヒルズ村役場近くの下宿に戻り、一通り寝る準備を整えた。
明日の朝は、カートレット邸に泊まったマイカ先生のために馬車を手配したり、お部屋や晩餐会の後片付けをしなければいけない。忙しい一日になりそうだ。
だから最初は、借りた本を少しめくるくらいに考えていた。
だが、堅苦しくて難解な歴史書のある一文が、ベッドに入ったあともわたしの心を動揺させ続けた。
エンリス人による植民戦争の記録。その章の一部に、ミストル人が操った大魔法に関する記述が残されていた。
『それは、ミストル人による悍ましき兵器であった』と。




