Extra part:恥じらいとドレス
「くれぐれもよろしくお願いします」
奥様が席を立ち、弁護士の先生が一礼したのを見てから、わたしは事務所の扉を開けた。
解放されたお二人と再会した直後、マイカ先生は出版社の人たちが手配した馬車に押し込まれ連れ去られてしまった。行き先は恐らく民事裁判所。予想していたこととはいえ、あまりに動きが早くて唖然とした。
これしか方法が無かったとはいえ、あまりに先生が可哀想だった。馬車にぶち込まれた時の、屠殺場送り直前の羊みたいな眼差しが網膜に焼き付いて離れなかった。
それは奥様も同じで、結果、わたしたちの足は自然とカートレット家お抱えの弁護士事務所に向いていたという次第である。
大通りに出るなり、奥様は大きく伸びをした。
「さて。これで一応、義理は果たしたと言えるわね。権利云々の話はさすがに力押しではどうにもならないもの」
奥様はきっぱりと言い切った。
実際、これ以上わたしたちにできることはないのだろう。
「……シライナ、表情が冴えないわね」
「え?」
言われて初めて、眉間に力が入っていたことに気づいた。
「抱え込みすぎよ。貴女はよくやったわ。そもそもが異常事態なのだから、それを解消しただけ良しとしないと」
「そうですね……でも、もっと良い方法が無かったかなぁ、って思ってしまって」
「完璧主義ね」
「すみません……」
「謝るようなことではないわ」
そう言ってから、奥様は思案するように目を閉じて、形の良い顎に指を当てた。そのポージングだけで、道行く人々がつい振り返るくらいに様になっていた。
そしてきっかり三秒後、目を開いて「よし」と言った。
「シライナ、お買い物に行きましょう」
☆☆☆
ちょっと考えれば当然なのだけど、奥様には服が必要だった。
丸一晩に及ぶ怪物との攻防で、髪は乱れ服は汚れてしまっていた。
それと気づかなかったのは、解放直後の奥様がなんだか溌剌としている、というか明らかに血色が良くて顔も艶々としていたからだろう。
「思う存分魔法が撃てて楽しかったわ」
中央駅前に聳え立つ百貨店『ハローズ』の店先で、奥様はそう告白した。
今朝、ちらりと見たウェスト・サイド・エンドの一角はクジラが転げ回ったかのような惨状だった。どうやらわたしが脱出したあとに相当激しく撃ち合ったらしい。念のため結界は二重三重に強化していたけど、怪物側もなりふり構わずあらゆるものを投げ込んで建物を壊そうとしていたそうだ。
……それでもやっぱり、魔法による破壊痕の方が多かった気がする。
「お陰様で服がぼろぼろだわ。せっかく気に入っていたのに」
「コッツヒルズに帰ったら、仕立て屋に直してもらいますか?」
「それもいいけど、まずは帰るまでの服が欲しいわね。さすがにこの格好で汽車には乗れないわ」
確かに奥様のドレスは埃や煤ですっかり汚れてしまっている。何かに引っ掛けたのか、破れてしまっている箇所もあった。まだしも新しい服を用意してもらったわたしの方が身だしなみが整っている。
それでも、やはりと言うべきか百貨店に入ってしまうと奥様はたちまちお店の人たちの注目を集めた。
服のせいではない。ハローズみたいなお店は身なりで客を選別する。明らかに浮浪者然とした格好をしていたら警備員に摘み出される。
今の奥様の姿はまさに戦場帰りと言ったところなのだけど、それを見咎める人はいなかった。
多少気にするような素振りを見せる人がいても、奥様が胸を張ってずんずん進んでいくものだから「これでいいのかな?」と無理やり思わせてしまう。
奥様は婦人服売り場に着くやいなや、いつもの即決ぶりで紺色のデイドレスを買い上げた。あまりに早すぎて、店員さんがセールストークを発揮する隙も無い。
それでもさすがはエンリス随一の百貨店。会計を終えてすぐに、応対してくれた初老のコンシェルジュが夏に向けての話題を振ってきた。
「奥方様、初夏に向けて社交界はますます賑わいを見せておりますね」
「生憎、我が家は少し出遅れているわ。色々と事情があるのよ」
今の奥様の姿を見たら、色々察せられそうなものだ。
でもさすがは一流店の店員。白くなりかけの眉毛を少しも動かさない。
「まだまだ巻き返しは可能でございますよ。差し当たり六月の王家主催競馬などに向けて、夏服のご用意などはいかがでしょうか。当店でも有名どころの品を一通りご用意いたしておりますので、御用命の際は是非とも」
そう言ってコンシェルジュは名刺を差し出した。
意外なことに、奥様はそれを受け取ってから五秒間何かを考えていた。即断即決を地で行く奥様にとってはかなりの長考だ。
「五月末にはデビュタント・ボールも控えておりますな」
さらにコンシェルジュが耳打ちするかのように言い添えた。
「そうね」
ちらりと奥様がわたしに視線を向けた。コンシェルジュの老紳士も同様だ。一見すると眠そうに見える灰色の眉毛の下で、百戦錬磨の商売人特有の観察眼を光らせている。
あ、これターゲットわたしだ。
「失礼ですが奥方様、そちらのレディとはどういったご関係で?」
「当家のプライム・メイドよ。まだ働き始めて一月と少しだけど……ふふ、もう活躍してくれているわ」
奥様、絶対昨日のことで笑いましたよね?
と、心のなかで思ったものの口には出せない。さすがにこんな場所で、ほとんど裸みたいな格好で下町の家々の屋根を走り回ってましたとは言えない。
「まさに社会への参加の定義に当てはまるお方ですな」
「確かにそうね。私としたことが、社交界と疎遠になり過ぎてすっかり忘れていたわ」
「奥方様、もしよろしければお召し替えの間に新作のイブニングドレスなどご用意できますが」
「だそうよ。試着させてもらいましょう、シライナ」
「えっ」
奥様の目がキラキラ輝いていた。
☆☆☆
昨日から今日にかけて、つくづく現実感のない日が続いている。
怪物に取り囲まれ、大立ち回りの挙句に何とか魔の手から逃れて、警察署で一夜を明かす。これだけでもお腹一杯なのに、それに加えてこれ。
わたしなんかが、ドレスを着るなんて。
「とてもよくお似合いですよ」
試着を手伝ってくれた年配の店員さんがそう言ってくれたけど、どうしても信じられない。「ありがとうございます」と言いはしたものの、声は自分でも聞き取れないくらい小さかった。
「あの、少し背中側が空きすぎていませんか?」
普段は顔と手以外の肌をほとんど見せないから、背中側に生地がないことにどうしても違和感を覚えてしまう。
でも店員さんは笑うばかりだ。
「イブニングドレスですから、これくらい当たり前ですよ!」
「そうでしょうか」
「お客様は細身で姿勢も整っておいでですから、こういう服が良く似合いますよ」
「あ、ありがとうございます……!」
どうしよう。顔中が痛いくらいに熱くなっている。
生まれてこの方、晴れやかな服を着た記憶がほとんどない。
メラーズ先生の孤児院に引き取られるまでは記憶すら曖昧だ。引き取られた後も、貴族令嬢が着るようなドレスには袖を通したことがない。
着るものに困ったことはない。お古だったり、パッチワークのある服が多かったけど、それらの準備のために先生がどれだけ苦心していたかをよく知っている。服はどれも古かったけど、決して襤褸切れなんかじゃなかった。
学院に通っている間は支給された制服で、就職活動に入ってようやくちゃんとしたスカートやブラウスを買った。そのお金も一部はメラーズ先生が出してくれた。
「出世払いよ、シライナ。楽しみにしているわね」
先生はそう言って笑っていた。
でも、その機会は永久に無くなってしまった。
(メラーズ先生……)
きっと、働いているわたしの姿を見たら先生は笑ってくれるだろう。
でもドレス姿を見たら、なんて言うだろう。ちょっとイメージできない。
「さ、カーテンを開けますよ!」
心の準備もままならないままカーテンが開けられた。すぐ目の前に着替えを終えた奥様が立っていた。
奥様が澄んだ蒼い瞳を見開いた……ような気がした。
「いかがでしょうか、奥方様」
着替えを手伝ってくれた店員さんが自信満々にそう言った。わたし自身にはそんな大胆に振る舞う気力は無い。思わず縮こまりそうになったけど、試着室から追い出すかのように背中をぐいと押された。いつもは布地で守られている背中が、外の空気に触れてひやりとした。少し汗が浮いていた。
「奥様、あの……」
「シライナ、鏡を見てごらんなさい」
コンシェルジュさんが等身大の姿見を運んできてわたしの前に置いた。
そこに、見知らぬ美女が立っていた。
……美女。
いやいや。
いやいやいやいやいやいやいや。
馬子にも衣装って言うしね。
「綺麗よ、シライナ」
ほぅ、と息を吐きながら奥様が言う。対するわたしの反応は、
「ひぃょっ?!!」
「なにその声。動揺し過ぎよ」
「す、すみません……」
顔から順番に全身がカァーッと熱くなっていくのを感じた。というかもう全身レッドペッパーみたいになっているのではないか。
「もっと堂々となさい。立派な鎧を纏ったら背筋を伸ばす。淑女がドレスを着た時も同じよ」
堂々と腕組みをしている奥様の後ろで、コンシェルジュのお爺さんが「うんうん」と頷いていた。
頬にチクチクとした感じを残しながら、わたしは鏡を覗き込んだ。少しだけ胸を張って。
白いシルクのドレスを着たわたしが立っていた。
奥様がいつも着ているデイドレスよりもさらに一回り細いシルエットだ。布地の滑らかな感触が全身から伝わってくる。普段着慣れた服も着心地が良いけど、シルクのドレスは初めて着たのにまるで違和感がない。
フリルは最小限だけどその分デザインの流麗さが浮き立っている。というより、このタイプのドレスはむしろ装飾が少ないほど綺麗なんじゃないだろうか。
白一色の姿のなかで、わたしの栗色の髪と翡翠色の目だけが際立っていた。
それにしたって、背中が少し開いているのはやっぱり恥ずかしい。
「……これは真剣にデビュタントボールのことを考えないといけないわね」
「む、むむむ無理です奥様! わたしが舞踏会なんてそんな」
「お言葉ですがお客様、近頃は貴族令嬢でなくとも参加できる舞踏会がございますよ」
「ええ! 一昔前と違って、新聞記者や法律事務所で働く若い女性も増えていらっしゃます。プライム・メイドなら参加資格は十二分ですわ!」
……そうなのだ。
確かに今のエンリスでは、働く女性全体の地位が向上してきている。
昔はどこの国も男性優位だったけれど、魔法の才能に男女差は無い。社会通念的にまだまだ女性の権利が制限されているところはあるけど、発言権が強まっているのは明確な事実だ。
だからこそ貴族令嬢だけでない、社会に出て一定のステータスを得た女性が、自分自身の能力でもってデビュタントボールへの参加資格を得る現象が起き始めている。
わたしに、まだまだそんな資格があるとは思えないけれども。
「シライナ、もし家の件が落ち着いてきたら、舞踏会のことを真剣に考えましょうか」
「でも、エスコートしてくれる方もいませんし……」
「貴女ならすぐに見つけられるわ。それこそ、ハーヴェイの呪いが軽くなったら、コッツヒルズのあの家で催しても良いと思っているのよ。その時は主演を任せるわ」
「それは奥様のお役目です!」
「ええ。私はホスト、貴女は花型。夢が広がるわね」
「……それより先に新婚旅行ですよ?」
「さて、どっちにしましょうかしらね」
たぶん奥様にとっては、本当にどちらも楽しみなのだろう。氷のような美貌に少し悪戯っぽい雰囲気を漂わせていた。
綺麗なドレスを着せてもらったこと、ちょっと嬉しかった。
でもそれ以上にこう思ったのだ。奥様のああいう自信に満ちた態度こそ、何よりもわたしに必要なんじゃないかって。
そしたら、このドレスだって今以上にわたしに馴染んでくれるかもしれない。




