Part7:サミュエル・レトリバー
俺が現場に到着したときには、すでに首都警察庁の警官たちが周辺家屋から住民たちを避難させていた。
狭く不潔なアパートから、ネズミの引っ越しのように大勢の人間があふれ出てくる。
昼間にも関わらず酔っぱらっている男や、そんな亭主の尻を蹴り上げる奥方たちが、警官たちに対して悪態をつきながらもぞろぞろと道路を進んでいく。
安酒の酒気や、不純物だらけの煙草の臭いは、下町育ちの俺にとって慣れたものだった。不快ではあるが同時に親しみやすいものでもある。
だが現場付近を覆っている黒々とした魔力からは、明らかに異質な不快感が滲み出ていた。
(似てやがるな……)
過去の記憶が頭に引っかかった。
だが、恐らくそれではない。俺が探しているのはこれではない。
すでにそう察していたが、一警官として現場に到着した以上、事態解決のために手を貸すのは当然のことだ。
指揮所はウェスタン・エンドのパブを借り受ける形で設置されていた。まともに機能しそうな場所がそこしかないからだろう。現場付近の建物はどこもかしこも損傷している。まるで、近くで戦列艦が葡萄弾でもぶっ放したみたいだ。
ふらりと指揮所に近寄ると、扉の前に立っていた巡査二人が進み出た。
誰何される前に、先んじて手帳を掲げた。
「サミュエル・レトリバー警部だ。責任者は中か?」
「失礼しました! 三階に警部補がおられます!」
「ありがとう」
あまり緊張させないよう気軽に言ったつもりだったが、まだ十代に見える巡査たちは余計に固まってしまった。
不本意だが、どうやら自分の見てくれと手帳は、警察関係者なら誰でも身構えさせてしまうらしい。元々図体がでかいうえ、軍隊で嫌と言うほど鍛えられたせいで、よく同僚や上司から「怖い」と言われる。冗談じゃない。
せめて黒一辺倒のロングコートだけでも変えるべきなのだろうが、服を選ぶなんて面倒だし、そんな時間もない。
そのうえ、警察手帳も通常のものとは異なっている。
濃紺の生地に銀のダイヤが三つ縫い込まれているところまでは普通の警部と同じだが、階級章には無先刀の意匠が追加で施されている。特命警官の象徴であり、事実上、ひとつうえの階級と見なされる。
そんなものを三十手前の若い男が持っているのだから、入職したての巡査たちが緊張するのも無理からぬこと、なのだろう。
(慣れんなぁ)
胸中でためいきをつきながら、俺は巡査の片割れの肩を軽く叩き、パブの扉を開けた。背後で二人の巡査が振り返り、首を伸ばす気配を感じたが、気づいていないことにした。
狭くて急な階段を登り、もとは物置らしい部屋に入ると、数人の警官が双眼鏡を顔に押し当てていた。
「物凄い美人さんがお困りだぜ」
「おい、俺にも貸せって!」
「いやぁ見るからに気の強そうな女だぞ。デートに誘うなら隣のあの子の方が……」
なにやってんだか。
「失礼」
あまり威圧的になり過ぎないよう気をつけたつもりだが、自分でも思った以上に低く響いた。
水をかけられた猫のように、はしゃいでいた警官たちが居住まいを正した。バツが悪くなったのか、両手を後ろに回して双眼鏡を隠している。
責任者は誰かと尋ねようとしたら、双眼鏡を持っている警官の襟元に警部補の徽章がついていた。俺はさりげなく双眼鏡から視線を外しつつ敬礼した。
「サミュエル・レトリバー警部。特殊呪術の案件と聞いて来た。状況は?」
「は、はっ! 呪障の効果範囲からの避難は完了しましたが、中心部に三名ほど取り残されているようです!」
「救出班は出したのか?」
「はぁ……二回ほど突入させたのですが、あの黒い怪物が何事か叫ぶたびに気絶する者が続出しまして、何とも……」
警部補は申し訳なさそうに言うが、まあ悪い判断じゃない。むしろ無闇に突撃を続けなくて良かった。正体不明の呪いに闇雲に戦力をぶつけたところで、最悪殉死者を出しかねない。
窓から外をのぞくと、何の変哲もない下町のアパートを、腐ったきゅうりのような怪物たちが包囲している。
今にも身体ごとぶつかっていきそうな態勢だが、それができないのは、建物を覆うように白く輝く木々が生えているからだろう。よくできた結界だ。
(あれだけの量の呪いを押し留めるとは……だが)
「あの、警部殿。あれはどのような呪いなのでしょうか」
「分からん。それを調べるのが小官の役目だ。そろそろ分析班や保護隔離班も到着する。諸君は引き続き住民の避難と現場への規制を継続するように。
くれぐれも、被害者をじろじろ眺めるような行為は慎めよ」
警部補たちは恐縮したように敬礼を返すと、双眼鏡を置いてそそくさと部屋を出ていった。
「やれやれ、どこも人材不足か」
至らない人材には自分自身も含まれている。
二年前に終わった海峡戦争の影響で、社会の中核を担うべき中堅労働者に大きなダメージが出てしまった。
結果、現場の管理職という重要なポジションを、経験不足の若者か一線を引いた年配に任せるしかない状況にある。
俺自身、特命警官などと銘打っているが、まだまだ実力は伴っていない。
「少佐のような方が現役でいてくれれば、楽なのだがなぁ」
ないものねだりのため息をつきつつ現場の方を見やる。
遠目に、木々で守られたアパートのなかをぱたぱたと動き回る人影が見えた。どちらも女性らしいとシルエットで分かる。なかなか危機的な状況のはずだが、パニックを起こしているわけではなさそうだ。
「肝の据わったご婦人たちだ…………ん?」
思わず、警部補の置いていった双眼鏡を取り上げて両目に押し付けていた。
最初に窓枠の向こうに見えたのは、緑色の瞳の小綺麗な女性だった。少し背が低めで、ややもすると少女のように見える。
窓枠の向こうで往復するたびに、何かしらの荷物を右へ左へと動かしている。本人はいたって真剣な表情なのだが、どこか子犬が走り回っている様子を連想してしまった。
(いやいや、そうではなく!)
気になったのはもうひとりの方。見知った顔だ。
窓枠のなかにもうひとり、ドレスの袖を腕まで捲った、銀髪の貴婦人が現れた。
忘れようにも忘れられない相手だった。
「イルマさん……?!」




