Part3:発狂アパートにようこそ
一月ぶりに訪れた首都の空は、わたしの記憶の三倍暗く、そして汚かった。
キングス・セントラル・ステーションから一歩踏み出しただけで、わたしは思わず咳き込んでしまった。
奥様もハンカチを口元に当てて軽く咳払いをしていた。
そのハンカチの端っこで、クジラやペンギンたちもくしゃみをしている。わざわざエプロンから移ってきたそうだ。
首都へのお出かけとあって、今日は二人とも気合いを入れてきている。
わたしは若草色のスカートに白のブラウス、そして首元にスカートと同じ色のリボンを結んできた。ちょっと腰が締まるけど、おかげ様ですらりとして見える……はず。
でも奥様にはかなわない。
少し青みがかった白地のスリーピース・ドレスをまとった奥様は、立っているだけで駅中の人々の視線を独り占めにしてしまった。
神秘的なアラベスク模様の入ったドレスが揺れるたび、何人かの男性客が目を奪われては線路に落ちかけていた。
それは駅前にある五階建ての百貨店に入ってからも変わらずで、歩くだけで店中の店員を引き摺りまわす勢いだった。
それはそれは、王女殿下でも来たのかってぐらいの大騒ぎだったのだけれど、最初から奥様の目当ては決まっている。
葉巻売り場にわき目も振らず直行すると、次々とショーケースの中身を指さしていった。
「バジル、サン・ジェルマン、グロリア・グレゴリオ、アロマ・デ・レネ、ピントゥラス・ニグラス。ぜんぶ5箱ずつ頂戴」
これ、ぜんぶ葉巻の銘柄。
下手な呪文より覚えにくそうだ。
どれも安物ではないし、結構な大人買いだとは思ったのだけれど、葉巻売り場の男性店員はまだ粘りたそうな顔をしていた。
奥様に向かって揉み手をしながら「今月のおすすめは」とか「旦那様にいかがでしょう」と必死に営業をかけている。
「生憎、主人は葉巻は吸わないの。支払いは小切手でお願いするわ。シライナ」
「はい、奥様」
わたしは預かっていた鞄から小切手帳を取り出して、ペンと一緒に奥様に渡した。
引き留めようとする店員を気にもかけず、奥様は前髪を片手で押さえながらペンを走らせた。
奥様と買い物をするのは初めてではないけれど、この人は本当に悩まないし迷わない。どれを買うかについて、売り場で三秒以上考えているのを見たことがない。
きっとこの葉巻にしても、お店に入る前、それこそコッツヒルズを出る前から「これ」と決めていたのだろう。
すげなくあしらわれた店員さんにちょっと同情しながら、わたしは山積みになった葉巻を紙袋に入れていった。
「すごい量ですね、奥様」
百貨店を出てからも、道ゆく人々の視線を集めまくっている。
もちろん奥様も見られてるんだけど、その一歩後ろで大量の葉巻の入った袋を抱えているわたしだって、相当人目を引くだろう。
「昔からヘビースモーカーなのよ。というか、他の贈り物を貰って喜ぶ絵図が浮かばないわ」
こりゃ相当変な人に違いないぞ、とわたしは思った。
でも、すこし楽しみでもある。
(小説家かあ……)
自分で書こうとは思わないけど、読むのはすごく好きだ。
就職活動中、何度か心が折れそうになったけど、そのたびに小説を読んでは救われていた。
小説そのものが問題を解決してくれるわけじゃないけど、少しの間は気持ちが軽くなる。
結局、人って虚構にすがりながら生きる生き物なんだな、と自分を顧みて思ったものだ。
実はちゃっかり『黒樫の騎士団』を鞄に入れて持ってきている。あわよくばサインを貰いたい。
そう、ちょっと浮かれていたのだ。
プライム・メイドとしての仕事は楽しいし、もちろん職場であるカートレット家にも不満はない。
ただ小説家に限らず、芸術家とか音楽家とか、ちょっと特別感のある仕事にはどうしたって憧れてしまう。
自分には何かを生み出す方向の才能が無いだけに、それができる人たちは純粋にすごいと思う。
そんな淡い期待を抱いていたからだろう。
汚れたテミス川を越えて治安最悪のウェスト・サイド・エンドをずんずん進み、あたり一面に排煙と汚物とアルコールの臭いが立ち込める共用住宅街にたどり着いてもまだ、わたしはどこか小説家という職業に対してキラキラしたイメージを持ち続けていた。
圧し潰されたサンドイッチみたいに薄いアパートの、身体半分ほどもないドアの前で奥様は立ち止まった。
「マイカ。マイカ・ホワイト、いるでしょう?」
錆びついたドアノッカーをごつごつ叩いて奥様が言った。
しばらく待っても返事が無い。
「……奥様、本当にここなんですか?」
「間違いないわ。マイカは重度の出不精よ。引っ越しなんて、エンリス島が海に沈んだってやらないわ」
それ死ぬじゃん。
と心のなかで呟いていると、頭上から「キャハハハハ!」と生意気そうな笑い声が降ってきた。
視線を上げると、他のアパートの屋根上から、煙突掃除人の子供たちが煤だらけの顔でわたしたちを見下ろしていた。
「発狂アパートに人が来てらぁ!」
「中に入ったら喰われるぞお!!」
「く、喰わ……っ?」
煙突掃除人にからかわれるのは別に良い。下町ではよくあることだ。
ただ、連中の顔は明らかに、中に入った人間が酷い目に遭うのを期待している表情だった。
わたしにも憶えがある。日頃人から馬鹿にされたり顎で使われたりしていると、ことさらに他人が酷い目に遭うのが楽しみになるのだ。しかも、他のどんな娯楽よりも。
「発狂、ね。ねえ貴方たち! いまでも叫び声が聞こえたりするのかしら!?」
だが奥様はまるで動じていなかった。
屋根の上の子供たちは顔を見合わせた。なかにはまじまじと奥様に見入っている子もいる。明らかに場違いな人間がいることに気づいたのだろう。
しかも「いまでも叫び声が聞こえるのか」と聞き返されるとは思わなかったはずだ。
「え、ああ」
「三日に一回ぐらい?」
「ちげーよ七日に五回だよ」
「キェエエエエエエエッ、とか死ねェエエエエエエエッ、とか」
「水虫ー!! もあったよ!」
「そう。快調みたいね。良かったわ」
何が?
え。いまの証言のどこに「良かった」要素があるんです?
「あの、奥様。本当に大丈夫な人なんですか?」
「面白い人よ」
(大丈夫ではないんだ)
奥様はさっきよりも力を籠めてノッカーを叩き直した。
「マイカ・ホワイト! 出不精もいい加減にして出てきなさい!!」
あまり出さないような大声で奥様が怒鳴った。
それに対して、ドアの向こう側から微かに「うるせぇぞ!」と声が返ってきた、気がした。
どたどたと床板を踏む音が近づいてくる。そのままドアを押し開けるのかな、と思ったら「おあっ!?」と素っ頓狂な悲鳴があがった。
「シライナ、ちょっと右に」
「は、はい」
いろんな物が派手に倒れたり崩れたりする音とともに、ひとりの女の人がアパートから文字通り転がり出てきた。
事前に奥様の指示通り避けていなかったら、巻き込まれて一緒に道路を転げ回っていただろう。
「っつつ……しつこく呼びやがって、この水虫野郎……!」
くたくたの、染みだらけのシミューズを着たその人が、悪態とともに身体を持ち上げた。埋葬されて三日目の死体みたいに蒼白い顔だった。
「残念。野郎じゃないわ」
死人みたいな住人は、白皙の美貌の奥様を認めると、目を見開いた。
「おまっ、イルマか!?」
「久しぶりね、マイカ。元気そうで何よりだわ」
蒼白い顔に血の気が戻る。ぼさぼさの黒い髪をかきあげながら、マイカ・ホワイト先生はゆらりと立ち上がった。
……作家というと、知的な風貌の持ち主かと思っていたけれど、残念ながら空想は空想らしい。
復活した幽霊みたいな小説家先生の姿に、わたしはすっかり圧倒されてしまった。
だから、かすかに先生の身体から立ち上った呪いの気配を、うかつにもこの時見落としてしまったのだ。




