Part10:仕事の時間だ
静かさを取り戻した森には、大惨事の爪痕が深々と残った。
倒れた木々、カラカラに干からびた馬鹿貴族。
崩壊した竜から飛び散った水があちこちに小さな水溜りをつくり、足元はぐずぐずの泥沼と化している。
その泥沼の真ん中で、デイ・ドレスの裾が汚れるのも気にせずどんよりとした空気とともにうずくまる奥様。
「またやってしまったわ……」
奥様が深々とため息をついた。
わたしのスカートに避難しているクジラやペンギンがおろおろしている。それはわたしも同じで、どう声を掛けるべきか分からなかった。
というか「また」ってことは、前にも似たようなことがあったってことですよね。
「私っていつもこう……後先考えずに突っ走ってしまうから……」
「あ、あの、奥様。元気出してください」
そんな月並みなことしか言えない。
クジラたちと一緒に困り果てていると、後ろから泥を踏む音が近づいてきた。
猫の頭の紳士がゆっくりと奥様に歩み寄る。
その銀色の毛並みが、月明かりのなかで少しずつ溶けるように消えていった。
そして、仄かに光る金色の髪の毛に変わった。
長いヒゲの生えた顔が人間の顔へと戻っていく。月並みな表現だけど、とても整った顔立ちの男の人だった。
「旦那……様?」
「時間経過か、あるいは君の魔法のお陰か。ようやく元に戻れたよ」
旦那様、サー・ハーヴェイ・カートレットは少し振り返り、穏やかな笑みをわたしに投げかけた。
こんなことを思うべきではないかもしれないけれど、率直に言おう。すこしどきっとした。
整った目鼻立ちもそうだけれど、なにより思慮深い印象をあたえる水色の瞳が印象的だった。まだ若い紳士であるはずなのに、瞳の奥には複雑な色合いが宿っている。すこし陰があるのかもしれない。その陰が、わたしを惹きつけた。
そして同時にこう思った。冷たいくらいに透き通ったイルマタル・カートレット夫人の銀色の瞳と対照的で、だからこそ綺麗に釣り合っているのだと。
旦那様は奥様の隣に膝をつくと、肩に腕を回して抱き寄せた。
「苦労をかけたね、イルマ」
「そんな……ごめんなさい、私……」
「僕はどうってことないよ。それよりも」
旦那様がもういちどわたしの方を見た。奥様も、しょんぼりとした顔をあげてわたしを見ている。
「申し訳ない、ミス・エルフィンストーン。我々夫婦の日常はおおむねこういう感じだ。少しでも人手が欲しいと思っていたが、やはり他人を付き合わせるわけにはいかない。君は……」
「っ!」
気がつくと走り出していた。真っすぐに、泥まじりの地面にうずくまっている二人の元へ。
そしてスカートやブラウスに泥が飛び散るのも気にせず、文字通り滑り込んだ。
まあ、もとからずぶ濡れの泥まみれだったから、いまさらだったけれど。
「ご一緒させてくださいッ!!」
服のことも髪型のことも、わたしの頭のなかにはこれっぽっちも残っていなかった。
自分でも驚くぐらいの大声で、ほとんど怒鳴りつけるように頼み込んだ。
「わたしが治します! 旦那様の呪いを解いて、お家の仕事もして、それで……それでっ、新婚旅行に行ってください!! いや、わたしが行かせます、絶対!!」
繰り返しになるけれど、わたしは自分にあまり自信がない。
自分自身の幸せも、人並みで良いと思ってる。恋愛小説みたいに王子様や公爵様のお嫁さんになりたいとは思わない。お金だって奨学金を返しながら無理なく貯められたらそれで良い。
だけど、どういうわけか自分でもよく分からないけれど、目の前にいるお二人を二人ぼっちにしていたくないと強く思った。
不遜な言い方かもしれないけれど、わたしがいないとだめなのだ。
わたしがやらなきゃいけないんだ。
「奥様、新婚旅行に行きたいって言ってましたよね?!」
「え、ええ……」
わたしの勢いは止まらない。勢い任せに奥様の手を取って強く握り締める。銀色の瞳が驚いたように見開かれていた。
「わたしに任せてください! 旦那様の呪いは絶対に解いて見せます! 旦那様も!!」
今度は噛みつくように旦那様を睨みつける。金髪碧眼の美男子が気圧されてのけぞった。
「絶対に諦めないでください! いいえ、諦めるなんて許さない!! 奥様を新婚旅行に連れていくのは義務ですよ、義務ッ!!」
しばらく呆気にとられたようにぽかんとしていた。きっと幼年学校から今に至るまで、二十歳の女の子にここまでキツく命令されたことはなかっただろう。
ちょっと口を開けたまま二人とも黙ってしまった。木々に戻ってきた鳥たちの鳴き声と、わたしの荒い鼻息、時々ビクビク痙攣するロックフィード伯爵以外に何の音もない。
「……ふ、ははははははは!!」
そして、旦那様が堪えかねたように笑い出した。
つられて奥様も、その鉄面皮を少しだけ緩めた。
「言われてしまったわね、ハーヴェイ」
「っくく、はは……いや、まったくだ」
逆にわたしはちょっと我に返って、あまりに大それたことを勢い任せに吐き出したことにようやく意識が追いついていた。
「す、すみませんっ! 大口叩いちゃって……!」
「だめよ、シライナ」
今度は奥様が強くわたしの手を握った。
「王のサーガ曰く、忠誠の言葉に言い直しは許されない。貴女が言ったのだから、私は信じるわ。ねえ、ハーヴェイ?」
「そうだな、イルマ」
旦那様は居住まいを正してわたしに向き直り、右手を差し出した。
「君のこと、頼りにさせてもらおう。シライナ・エルフィンストーン」
何もかもが動き出したのだ、と思った。
他者に選ばれたからではない。自分自身で、人生の転機となるドアの、最後の一押しを押し込んだのだ。それがいま、こうして差し出された手となって表れている。
学生生活は終わった。
これから始まるのだ。わたしの、仕事の時間が。
「……全力で務めさせていただきます」
わたしは旦那様の手を握り返した。




