69.ソフィア2号
不器用な母の愛を知り、大粒の涙を流していたセシルが、ようやく落ち着きを取り戻した頃。
彼女はふと、ソフィアが先ほどまでメンテナンスをしていたエイネンジュの杖をじっと見つめた。それはかつてセシル自身が作り、失敗作として手放したはずの杖である。
(おかしいですわ。エイネンジュの杖が、なんだか、変)
公式杖職人の補佐としてソフィアの元で修練を積んだ結果、セシルの職人としての『目』は、以前とは比べ物にならないほど格段に向上していた。
だからこそ、自分の作った杖にあり得ないプラスアルファの細工が施されていることに気づいてしまったのだ。
(わたくしが作った物にお母様が手を加えた? いや、でもだとしたら言うはずだし。まさか)
この場には、神域に達した杖職人が一人いる。その少女の異次元ぶりは間近で見て、嫌というほど痛感させられてきた。
もう一度、エイネンジュの杖に視線を落とす。芯材が内包する魔力が、まるで木肌から溢れ出ているかのようだった。
「ソフィアさん。まさかとは思いますが、この杖の魔力回路の数を、増やしましたの」
セシルの驚愕に満ちた問いかけに、ソフィアはパァッと顔を輝かせて頷いた。
「正解ですっ」
(せ、正解です、って、え、ええっ)
セシルは戦慄すら覚えた。行われた細工が神業であることは言うまでもない。だがそれ以上にセシルを驚かせたのは、ソフィアのその態度だった。
まるで「今日のお弁当の隠し味を当てられた」とでも言わんばかりの、他愛もない日常の出来事のような無邪気な微笑み。これほどの奇跡を「たいしたことではない」と無自覚にやってのける底知れなさに、セシルは心底驚愕していたのだ。
「うむ、やるじゃないか。その微細な細工に気づけるとは、ずいぶんと成長したね」
凄腕の職人である二人から同時に目を褒められ、セシルは息を呑む。
しかし、彼女の頭の中は凄まじい混乱の渦にあった。
「あり得ませんわ。魔力回路とは、つまり木の年輪のことです。杖として切り取られた死んだ木が、後天的に生長して年輪を増やすなんて、絶対に不可能です」
セシルの言う通り、自然の理を曲げるような真似は魔法でも不可能に近い。
しかし、ソフィアは幻の尻尾をパタパタと揺らしながら、事もなげに種明かしをした。
「生長させたのではありません。同じ杖の、普段使っていない別の場所から回路ごと木材を切り取り、魔力を通したい重要な部分へと『移植』したんです」
(前世の世界では、酷い火傷を負った患者の治療として、自分の体の別の場所から健康な皮膚を移植するという医療技術がありました。今回はそこから着想を得たんです)
内心でそう思い返しながら、ソフィアは手元にある彫刻刀を軽く指で撫でた。
「な、なんですの、その発想」
セシルは呆然と呟く。
「別の木の回路を移植してしまうと、魔力の波長が合わずに免疫不全のような拒絶反応を起こして、杖が自壊してしまいますからね」
「だから、同じ杖の別の場所から切り取る必要があったんだね。なんという素晴らしい発想。本当に素晴らしいよ、ソフィア」
マダム・グランが、杖の滑らかな表面を撫でながら感嘆の息を漏らす。
「ありがとうございます、マダム」
ソフィアがふんわりと微笑む一方で、セシルの顔にはまだ信じられないという色が濃く残っていた。
「いや、だとしても。同じ場所から切り取った年輪を、寸分の狂いもなく移植するなんて」
「移植先を入れ子のようにくり抜いて、かっちりとはめ込むんです。そして接着には、同じエイネンジュから抽出した樹液に、特殊な樹脂を混ぜたものを使用しました。そうすれば、魔力の通りに不具合は生じませんっ」
「っ。なるほど。それならたしかに、理論上は可能ですわね」
ソフィアの丁寧な説明を聞き、セシルはその高度なロジックを完全に理解することができた。
「ですですっ」
「その異次元の工夫の意図を正確に理解できるとは。そのステージにまで上がっているなんて、よく修練しているじゃないか」
マダムに再び褒められ、セシルは少しだけ頬を染めた。
だが、彼女の心境は微妙に嬉しくないものであった。理屈としては十分に理解できる。しかし、ソフィアのやっていることは、どれもこれも神業を超えた異次元の手作業なのだ。
(結局のところ、わたくしは技術で全く追いつけていないのですわね)
悔しそうに唇を噛むセシルを見て、マダムは静かに口を開いた。
「落ち込むことはないよ、セシル。職人の世界ではね、手が目を越えることは絶対にないんだ」
「手が、目を?」
「ああ。まずは一流の作品をたくさん見て、しっかり目を養うのが先さ。目が肥えていなければ、自分の手が作り出すものの良し悪しもわからないからね。まずはソフィアの元について、徹底的に目を鍛えなさい。技術は後から必ず付いてくる」
マダムの重みのある金言に、セシルは憑き物が落ちたように深く頷いた。
「わかりましたわ、お母様」
「うむ。精進なさい」
心地よい親子の会話が一段落したところで、奥からヨランダが新しいお茶を淹れ直して持ってきた。
湯気とともに、爽やかな甘い香りが工房いっぱいに広がる。
マダムがティーカップを手に取り、一口飲んで目を見開いた。
「ほう。これは素晴らしいお茶だね」
「ありがとうございます。これは『星雫草』とベリーを独自にブレンドしたお茶ですの」
ヨランダが豊満な胸を張り、得意げに微笑む。
「星雫草は、眼精疲労の回復に特効薬と言われておりますわ。ソフィアちゃん、試験のサポートで目を酷使して、とてもお疲れでしょうから」
その言葉に、ソフィアは温かいお茶の入ったカップを両手で包み込み、嬉しそうに目を細めた。
娘のように可愛がっているソフィアを思いやるヨランダの姿を見て、マダムは優しく微笑む。
「ふふ、ソフィア。それにセシルも。お前たちは二人とも、本当に良い出会いに恵まれたようだね」
「はいっ」
ソフィアが満面の笑みで力強く頷く。
その横で、セシルもまた温かい紅茶を口に含み、清々しい顔で口角を上げた。
「そうですわね」
そこへ、工房の奥の扉が開き、仮眠を取っていた新人職人のリサが目を擦りながら起きてきた。
「ふわぁあ、よく寝たわ」
リサは大きく欠伸をしてから、見慣れない老婆が店にいることに気づき、不思議そうに首を傾げた。
「誰、このおばあさん」
「リサさん、おはようございます。この方は元の店主の『杖の魔女』さんですよ」
ソフィアがにこやかに紹介した瞬間。
リサは喉を潤すために飲もうとした水差しから、盛大に水を吹き出した。
「は、はぁっ。つ、杖の魔女って、あの『杖の魔女』っ」
「そうですけど」
「なんであんたはそんな平然としてるのよっ。彼女が若い頃に作った杖は、国宝として帝国に収蔵されてるのよっ。数多の英雄たちが大金を積んで彼女の杖を求めたのに、選ばれた人間にしか絶対に売らなかったっていう、生ける伝説じゃないのっ」
興奮気味にまくしたてるリサに対し、ソフィアは首を傾げる。
「知ってます。凄い杖職人ってことは」
「えへん」
「いや、あんたが『えへん』じゃないわよっ。それで、セシルはどうしてこの場にいるの」
リサは、同じ職場で働くセシルとはすでに面識があった。
「マダムの娘さんなんですよ」
本日二度目となる、リサの豪快な吹き出しが炸裂した。
「ちょ、はっ、ええええええっ。聞いてないわよっ」
「そういえば、言っていませんでしたね」
「ええええええ」
リサは信じられないものを見るような目で、セシルをマジマジと見つめた。
「セシル、あんた、とんでもなく凄いわね。元から凄いヤツだとは思っていたけど」
凡人であるリサの視点からすれば、セシルの腕前でも十二分に神童の領域に達しているのだ。しかし、セシルは真剣な顔で首を横に振った。
「いいえ。わたくしなんて塵芥ですわ。ほんとカスですの。もっともっともっと精進しないとっ」
セシルのインフレした自己評価の低さと、常軌を逸した向上心に、リサは完全に引いた顔になる。
「あのさ、ソフィア二号が爆誕してるんだけど、何これ」
「あ、わかります?」
ヨランダが、困ったように微笑んで同意する。
ソフィアは祖父である伝説の職人ヴィルが基準になっているため、自分の凄さが全く分かっていない。そして今のセシルもまた、目の前にソフィアとマダムという神域の職人がいるせいで、自分の凄さが完全に麻痺してしまっているのだ。
「あたしからすれば、この場に化け物しかいないんだけど」
リサがげんなりとした顔で呟くと、ソフィア、セシル、マダムの三人が同時に不思議そうに首を傾げた。
「「「化け物?」」」
「お前らだよっ」
リサの魂のツッコミが、芳醇な茶葉の香りが漂う工房に響き渡るのだった。




