第98話 陛下、水辺の暗殺者(?)に狙われる<中>
翌朝。
長楽殿の庭には、ピリピリとした重苦しい空気が漂っていた。徹夜で周辺を捜索した警護隊の隊長が、目の下に隈を浮かべた顔で景雲に報告をした。
「……申し上げます。昨晩の襲撃ですが、池の周囲はもちろん、内廷の外壁に至るまで、侵入者の痕跡は一切発見できませんでした。また、あれだけの音を立てて玻璃の皿を粉砕したにも関わらず、池の傍からは矢尻はおろか暗器、火薬のたぐいも見つかっておりません」
「馬鹿な。弓も暗器も使わず、離れた場所からどうやって水面の皿を砕くというのだ。妖術使いの仕業だとでも言うのか」
「これは……水面に浮かぶ玻璃皿を砕く呪いか、後宮に巣くう悪霊の仕業かと」
「なんだ、そのやけに限定的な呪いは」
景雲が不機嫌極まりない声で吐き捨てた、その時である。
「はいはーい、ちょっと通してくださーい」
物々しい警備の兵士たちをかき分けるようにして、裾をたくし上げた凜華が出てきた。
彼女は景雲の横を通り過ると、そのまま池に近づいた。
手には厨房から拝借してきた「竹のトング」と「魚取り用の網」を持っている。
景雲の声が焦りを帯びる。
「凜華、何をしている。ここはまだ危険だ。お前は奥にいろ」
「大丈夫だよ、陛下。暗殺者なんてどこにもいないから」
凜華はあっけらかんと言い放ち、池の水際まで歩み寄った。
「昨日、李元さんに話を聞いたの。この池、最近掃除をして南方から運ばれてきた『七色の宝石砂』に入れ替えたんだって。池の底にも砂を敷き詰めたとか」
景雲が背後の李元に振り返る。李元は恐縮しながら言った。
「はい、そうです。七色の宝石砂なる珍しいものがあると聞き、お庭を飾るべく取り寄せました。業者を入れて工事をしたのですが……」
李元が頷くと、凜華はにやっと笑った。
「その砂の中に、南方の海からの『密航者』が紛れ込んだんだよ」
「密航者だと?」景雲も凜華の横に立ち、池の中を覗き込む。
凜華は、透明度の高い池の底をじっと観察した。
敷き詰められた七色の砂地に「小さな円錐形の穴」がいくつも開いているのが見える。それは、明らかに何らかの生き物が掘った巣穴であった。
「……いたいた。ちょっと脅かしてみよう」
凜華が竹のトングを水に突っ込み、巣穴の一つをツンツンと小突いた。
次の瞬間、チカッと光り、パーンという音がした。
昨晩と全く同じ、青白い閃光と破裂音である。
「うわああ!」
驚いて後ずさる兵士たちを尻目に、凜華は素早く網を突っ込み、巣穴から飛び出してきた「それ」をすくい上げた。
「ほら、捕まえた。これが、昨晩陛下を驚かせた『暗殺者』の正体です」
網の中でビチビチと跳ねていたのは、体長わずか五センチほどのくすんだ緑色をしたエビであった。
ただ普通のエビとは決定的に違う点があった。片方のハサミが、自身の身体の半分ほどもある異常な大きさに発達している。
「これは……エビか? これが火花と音を出したのか?」
景雲が眉をひそめると、凜華は人差し指を立てた。
「そう。こっちじゃ違う名前だろうけど、これは『テッポウエビ』だよ」
「テッポウエビ?」
「水中の凄腕の狙撃手。基本的には海水生のはずだけど、淡水で生きるのもいるんだね。この巨大なハサミの構造がミソ。敵が近づくと、このハサミを猛烈なスピードでパチンと閉じる。その速度があまりにも速すぎるせいで、ハサミの間にあった水が弾き飛ばされ、一瞬だけ水中に『真空の泡』ができる」
「真空の泡?」
「これを『キャビテーション(空洞現象)』と呼びます」
凜華は持てる知識を引き出しながら、解説を続ける。
「この真空の泡は、周囲の水圧に押し潰されて一瞬で弾け飛ぶんだけど、崩壊する瞬間にものすごい『衝撃波』が発生する。その威力は、小型の銃弾に匹敵するほど」
「銃弾とはなんだ?」
「あーそっか。銃はまだないんだね。超絶速く飛ぶ爆薬みたいなもん。昨夜は、皿が浮かんだ真下にエビの巣穴があった。皿の影を外敵だと勘違いしたエビが、渾身の衝撃波を真上にぶっ放して皿を割ったというわけ」
「エビがハサミ一つで、水中に衝撃波を生み出すのか?」
景雲は信じられないという顔で、網の中の小さな甲殻類を見つめた。
「さらに驚くのはここから」
凜華は、嬉々として説明を続ける。
「真空の泡が弾ける瞬間、内部の温度は太陽の表面温度に匹敵する超高温になる。凄まじい熱エネルギーが一瞬だけ光となって放出される。これを『ソノルミネッセンス(音光変換)』って言います。昨夜、水底で光った青白い閃光は、エビが放った超高温のプラズマの光だったんだよ」
キャビテーションに、ソノルミネッセンス。
異世界の(あるいは未来の)物理学の専門用語を並べ立てられ、周囲の者たちはポカンとするばかりである。
「太陽の表面温度とはどのくらいなのだ?」
「約六千度。人間は一瞬で蒸発する」
「……エビが人間を蒸発させる熱を出す?」恐ろしすぎる事実に、景雲は背筋が寒くなった。
「私も昨日は銃かと思って焦った。確かに鉄砲はあったね。エビだけど」
凜華はケラケラと笑いながら、網の中のテッポウエビをまじまじと見つめた。
「ハサミ一つで真空と太陽の熱を作り出す、小さな砲術士。大自然の神秘ってすごいよね」
「いや、こんな物騒なエビを見て笑えるお前の神経の方がどうかしている」
この女、やはり魔女ではないのか……と景雲は思った。
とにもかくにも、皿が割れたのは暗殺者の攻撃ではなかった。
懸念が払拭されると、景雲は深い溜息をついた。
「……やれやれ。ウミホタルの次はエビか。気が休まらん」
「甲殻類づいてるよね、陛下」
「笑いごとではないぞ」
景雲は凜華を横目で軽く睨んだ。
このエビのおかげで貴重な玻璃の皿は割れるわ、折角の月見酒は台無しになるわで散々である。凜華を口説く絶好の機会だったのに、と思えば口惜しい気持ちもある。
「甲殻類に縁があるのは仕方ないんじゃない? あなたは龍の化身なんだから。水の生き物の王でしょ」
「……それはまあ、そうだが」
景雲は憮然としつつも、龍と呼ばれるのは満更でもなかった。
凜華はフフッと笑いながら、水底の穴を見つめた。
そして、とんでもないことを言い出した。
「ねえ、陛下。このエビ、食べてもいい?」




