第88話 太医たちとの勝負がてらドラゲンドルフ試薬を作っちゃおう<五>
「揃ったか。では始めよ」
皇帝の声が響く。場と一同に緊張が走る。
凜華は、厨房に作らせて持ってきた「宴の時と同じ材料、同じ手順で作ったナスの野菜炒め」を卓の上に置いた。
「話は聞きました。医長はこの野菜炒めに植物毒が入っていたと疑っているとか?」
「ああ、そうだ。毒でもなければ、あんな死に方はすまい」顧成が大仰に頷く。
「では、私の作ったこの『ドラケンドルフ試薬』で確かめてみましょう」
凜華はマッシャーに似た先が平たい麺棒で、野菜炒めをぎゅうぎゅうに押し潰し、汁を抽出した。
薬箱から小瓶を取り出すと、抽出した汁を張った皿に、ドラゲンドルフ試薬を数滴垂らした。
途端、汁の中に、もやもやとした「橙褐色の沈殿」が現れた。
「おおっ! 見ろ、色が変わったぞ」
「やはりな! 先生が仰った通り、この野菜炒めには毒が入っていた。先生の見解が正しかったのだ」
皿を覗きにきた顧家の一門が色めき立ち、鬼の首を取ったように騒ぎ立てた。
顧成も「ふん、小娘の怪しげな薬でも毒が証明されたではないか」とでも言いたげに、勝ち誇ったように腕を組む。
しかし、凜華は彼らの歓声に対し真顔で言った。
「違うよ。これは毒の証明じゃないです」
「な、なんだと?」
「このドラゲンドルフ試薬は『アルカロイド』という成分に反応して色を変えます。確かに、トリカブトやベラドンナのような猛毒は、アルカロイドを持っています。でもね……」
凜華は、今度は食材の入った木箱を卓に置いた。中に入っていた「生のままのナス」と、香辛料の「黒胡椒」を取り出した。
これらを手早く潰して抽出した液にも、ドラゲンドルフ試薬を垂らす。すると、この液にも橙褐色の沈殿が出た。
「これにも毒が出た。どういうことなのだ」顧成が叫ぶ。
「ナス科の植物である『ナス』そのものや、辛味成分を持つ『胡椒』にも、元々アルカロイドは含まれているの。つまり、この野菜炒めからアルカロイド反応が出るのは当たり前。無毒のナスや胡椒でも反応は出る。アルカロイドがある、すなわち毒というわけじゃない」
そう言うと凜華は箸を持ち、野菜炒めをつまんで口に入れた。もぐもぐと咀嚼して飲み込むと言った。
「うん、塩胡椒の案配が絶妙。冷めていても美味しいね」
顧成の顔が一瞬にして凍りつく。
「なっ、無毒の野菜からも同じ反応が出るのか」
「ええ。つまり、この野菜炒めは『ただの胡椒の効いた美味しいナス炒め』で確定。毒なんてどこにもありません」
凜華は、今度は卓の上に「蟹の甲羅」と「柿」を並べた。
「曹大人を殺したのは、暗殺者の盛った毒じゃない。彼自身の『胃袋』と『不運』が引き起こした複合的な食中毒……『ヒスタミン・ショック』です」
「ひ、ひすたみんしょっく……?」
そこで凜華は周関の方を向いた。
「周先生、あなたは『蟹と柿の食い合わせが原因』という見解だとか。それ、半分以上正解です」
周囲に「おおっ」とどよめきが走る。
今度は周家の者たちが色めき立った。宸眷の薬師は、自分たちの当主の主張が正しいと言ったのだ。
凜華は解説を始めた。
「宴で使われた蟹は運ばれて数日が経過し、鮮度が落ちていた。特に曹大人が好んで大量に食べた『蟹味噌』つまり内臓には、アミノ酸が分解された『ヒスタミン』という化学物質が大量に発生していたはず。このヒスタミンは過剰に摂取すると、アレルギーに似た急性のショック症状、呼吸困難や痙攣を引き起こして死に至ることがある」
「だ、だが! 他の者も蟹を食ったではないか」顧成が食い下がる。
「ええ。普通の健康な胃袋なら、ある程度のヒスタミンは消化酵素で分解できる。なので、他の高官や陛下はなんともなかった。でも曹大人は蟹味噌を食べた直後に、大量の『柿』を食べた。柿に含まれる強烈な『タンニン』が胃の働きを阻害し、消化不良を引き起こしたことで、ヒスタミンの分解が極端に遅れたんです。さらにダメ押しとなったのが最後の『ナスの野菜炒め』」
凜華は、そのものは無実が証明されたナスを手に取った。
「ナスには、ヒスタミンの働きを活発にする成分『仮性アレルゲン』が含まれている。鮮度の落ちた蟹味噌で致死量スレスレのヒスタミンを溜め込み、柿のタンニンで胃の防御機能を下げたところに、熱々のナス炒めが入ってきたことで、胃袋の中で『死の化学反応』が一気に爆発した」
傷んだ蟹味噌、柿、そしてナス。これらが老いた官僚の体内で引き起こす「死への連鎖」は、現代医学の「ヒスタミン食中毒」と、古くからの「食い合わせの禁忌」が最悪の形で合致したものと言える。
まず、傷んだ蟹味噌には細菌の繁殖によって生成された大量のヒスタミンが蓄積している。これを摂取すると、数分から一時間以内に激しい動悸、顔面の紅潮、頭痛が襲ってくる。老齢で血管が脆くなった曹大人にとって、急激な血管拡張による血圧低下は、脳や心臓へ致命的なダメージを与える。
ここに「柿」と「ナス」が追い打ちをかける。
柿の成分「タンニン」が、蟹のタンパク質と胃酸に反応して胃の中で粘り気のある巨大な塊(胃石の卵)を形成し、「毒素を吐き出す」という身体の自衛本能を物理的に阻害する。
ナスには、アセチルコリンなどの「仮性アレルゲン」――免疫が関与せず量で決まるアレルギー成分が含まれており、これが体内のヒスタミン放出を誘発・活性化させる「着火剤」として機能する。蟹から取り込んだ外部の毒素に、ナスの成分によって自身の体内から溢れ出したヒスタミンが加わり、血管崩壊と血圧降下は劇的に加速する。
さらに、水分が多く身体を冷やすナスの性質がショック状態で低下した体温をさらに奪い、胃腸の蠕動運動を停滞させる。
毒素は排出されず腸から吸収され続け、重度の脱水と不整脈が進行する。最後は、急降下した血圧に心臓が耐えきれず、低血圧性ショックあるいは心不全により、悶絶の中で意識を失ってしまう。
「爆発、か。……確かに」
周関が合点したように大きく頷いた。凜華の表現は言い得て妙、曹大人の壮絶な死にざまそのものだ。
「これが、曹大人一人だけが亡くなったカラクリです」
控室は、水を打ったような静寂に包まれた。
毒殺ではなく、食材の運の悪い組み合わせと、個人の体質が生み出した不幸な事故。その「科学的証明」の前に、反論できる者は誰一人としていなかった。




