第86話 太医たちとの勝負がてらドラゲンドルフ試薬を作っちゃおう<三>
数時間後、凜華は外廷の厨房から運ばれてきた「昨晩の宴の献立表」と食材の残りものを前に腕を組んでいた。
豪華絢爛な宮廷料理だけあって、使われた食材は多岐に渡る。肉類、野菜、香辛料、そして遠方の海から運ばれてきたという海の幸。
「……海産物か」
凜華は、木箱の中で氷と一緒に保存されていた蟹を検分した。
「これがあやしいね。海産物は、宮城に運ばれてからすでに数日が経過していた。氷で冷やしていたとはいえ、鮮度は確実に落ちている。特に内臓、蟹味噌の傷みの進行は早いはず」
傍らで様子を見ていた景雲が眉をひそめた。
「鮮度が落ちていたから、腹を下して死んだとでも言うのか? 他の者も同じ蟹を食っておるのだぞ。私も蟹は食べたがなんともない」
「そうなんだよね。食中毒なら全員が倒れるはず。でも、曹大人だけが亡くなった。口から泡を吹いて急死するなんて、単なる腹痛じゃ説明がつかない」
凜華は唇に指を当て、頭を巡らせる。
医長の顧成は「最後に食べたナスの野菜炒めに植物毒が仕込まれていた」と疑っているらしい。
次長の周関は「食い合わせが悪かった」と主張しているという。
「普通に考えれば……だよね」
凜華の考えはまとまりつつあったが、死因を太医たちに納得させるには確固たる「科学的証明」が必要だった。
推測を披露するだけでは、彼らは納得しないだろう。
「按ずるに……よし、決めた」
凜華はポンと手を打つと、不敵な笑みを浮かべた。
「ちょっと難しいけど、この際『ドラゲンドルフ試薬』を作っちゃおう」
「ど、どらげんどるふ? なんだそれは」
「ふふ、ドラゴン素材のごつい武器みたいな名前だよね」
「どらごん?」
「龍のこと」
「……私のことか?」景雲はボケているわけではなく、至って大真面目だった。
「それは違うね」凜華は、あははと豪快に笑った。
「冗談はともかく。ドラゲンドルフ試薬はアルカロイド系の植物毒を検出するための最強の『捕獲者』だよ。これさえあれば、野菜炒めに毒が入っていたかどうかが一発でわかる」
「そんな妙薬が作れるのか」
「たぶんいけると思う」
凜華は、格段に広くなった研究室を見渡した。
備え付けの炉、大きな平台の上には蒸留器が複数台ある。
勝手口を出ればすぐ傍に井戸があり、水にも不自由しない。新たな薬作りに挑戦できる環境ではある。
あと必要なのは材料と、気合いと集中力と……ちょっぴりの勇気くらいか。
そこからの凜華の行動は早かった。
彼女は景雲の権限をフル活用し、宮中から必要な素材をかき集めさせた。
用意させたのはまず「蒼鉛」と呼ばれる銀白色の重たい鉱物。これはビスマスのことである。ビスマスはこの世界でも沢山採れるらしく安価で出回っているし、尚方監に在庫がある。
さらに、後宮の厨房から大量の昆布などの端材を接収し、牡蠣の殻と硫酸を用いて極限まで純度を高めた「氷酢酸」――純度の高い酢酸を揃えた。
凜華は、煤で汚れた袖をまくり上げて、目の前で赤々と燃える炉を睨みつける。
「注文一つで翌日には届いてた試薬を、まさかゼロから自作する羽目になるなんてね」
ドラゲンドルフ試薬を作る第一歩は、原料となるヨウ素の抽出である。凜華は厨房から大量に回収した昆布の端材を、土鍋の中で真っ黒になるまで蒸し焼きにした。室内には、鼻を突くような磯臭い煙が充満した。
焼き上がった海藻の灰を水に溶かし、何度も布で濾して澄んだ液を取り出す。それをさらに煮詰め、濃縮された「海藻の塩」を作る。
そこからヨウ素を遊離させるには、さらに強い酸化剤が必要だった。凜華は、あらかじめ用意しておいた硫酸を滴下し、立ち上る紫色の蒸気を蛇のように曲がった錫製の管へと導く。
冷やされた管の先から、黒紫色の鈍い光を放つ結晶――ヨウ素がぽつりぽつりと滴り落ちた。
凜華はそれを、純度の高い草木灰の上澄み液に溶かし込み、褐色の「ヨウ化カリウム溶液」に仕立て上げる。
次に必要なのは、この試薬の心臓部である「蒼鉛」だ。
凜華は虹色の光沢を放つビスマスの結晶細工を、乳鉢で粉砕した。
砕いた蒼鉛の粉は、ただの酸では溶けない。硝石から抽出して作る「硝酸」を用いて蒼鉛を溶かし、そこへ丹念に精製した氷酢酸を加え、銅製の蒸留器に投入した。
銅と錫の蒸留器が、シュンシュンと小気味よい音を立てている。凜華は温度計のないこの世界で、滴る液体の速度と立ちのぼる蒸気の揺らぎだけを頼りに火力を調整した。
数時間後、ようやく二つの主要液が揃った。
片方は、蒼鉛を強酸に溶かした無色の溶液。
もう片方は、ヨウ素を溶かした褐色の液体。
凜華は、この二つを器の中で静かに混ぜ合わせた。
「……お願い、応えて」
混ざり合った瞬間、液体は劇的な変化を見せた。
濁りのあった褐色が、一瞬にして毒々しいほどに鮮やかな「橙赤色」へと変貌を遂げたのである。
「できた。ヨウ化ビスマス酸カリウム溶液。ドラゲンドルフ試薬!」
器の中に溜まった液体は、まるで意志を持つ生き物のように燭台の火を反射して怪しく揺らめいている。
これさえあれば、銀針には反応しない植物性の毒も、あるいは「毒に見せかけた無害な成分」も、沈殿という名の動かぬ証拠で白日の下に晒すことができる。
凜華は額の汗を拭うと、満足そうに笑った。




