第83話 間借りだけど一国一城の主になったぞ<下>
寿寿が出て行き、凜華が「ちょっと言い方……」と文句を言いながら振り返ると、そこには別の驚きがあった。
寿寿の隣りでお茶を飲んでいたはずの絃楠は、いつの間にか姿を消していた。足音一つ立てない完璧なステルス離脱である。
さすがだ……と凜華は内心舌を巻いた。空気を読んで消えるスピードが尋常ではない。
忍者のような身のこなしに感心しながら、当然のように上座に腰を下ろした景雲に向き直る。
「一人で来たの? 不用心じゃない?」
凜華の問いに、景雲は鼻を鳴らした。
「不用心? ここは私が生まれ育った場所だぞ。家の庭を歩くのに何の用心がいるのだ」
実際、景雲が深刻な不眠症に悩まされていた頃は、深夜の宮廷や後宮を徘徊するのが彼の日課だった。
皇帝の夜歩きなど、警護の者からすれば生きた心地がしないだろうが、彼にとってはそれが唯一の息抜きだったのだ。
毎回護衛や近習と押し問答があり、彼らを怒鳴りつけ、振り切ってから散歩を始めるという困った皇帝である。
といっても、置き去りにできるのは視界に入る者たちだけ。草の者はこっそり距離をとってついてくるし、絃楠も遠くには行っていまい。
凜華は、景雲に初めて会った時のことを思い出した。
「そういえば、初めて会った夜もあなたは一人でフラフラ歩いてたね」
凜華がくすりと笑うと、景雲もつられたように口角を上げた。
「そうだったか?」
「そうだよ。ひどい寝不足だし、皇帝なのに変な人だと思ったなあ」
景雲はむっとする。
「皇帝を変人呼ばわりするとは不敬な。変な女代表のお前に言われたくない」
「その変な女に求婚したくせに」
「……」
景雲は何か言いたそうに口をむずむずさせたが、うまく言葉にならなかった。どうにも悔しいが、この変な女に執着している自分も変なのだろうと思う。
凜華が鉄瓶を持ち上げながら言った。
「何か飲む? 麦茶か白湯くらいしかないけど」
「茶でいい」
凜華は、熱い麦茶を茶碗に注いで差し出した。景雲は麦茶の香ばしい匂いを嗅ぐと、上品に啜った。ひと心地つくと室内を見渡した。
「古びてはいるがここは静かだな。逢引きの場所としては悪くない」
「逢引きって」
直球すぎる単語に、凜華は吹き出しそうになった。
景雲は涼しい顔で茶碗を傾けている。
これまでは凜華を長楽殿へ呼びつけるしかなかったが、これからは壺天閣へ通うことができる。皇帝にとっては、極めて好都合な「隠れ家」を見つけた気分なのであろう。
「あ、そうだ。逢引きついでにお願いがあるんですけど」
凜華はここぞとばかりに身を乗り出した。少しだけ声のトーンを上げ、擦り寄るように言った。
「実はここの裏庭に『かまど』を作りたくて……」
「そうか。ここはお前にやったのだ。好きにしていい」
「でもかまどを作る予算が全然足りなくてですね……」
「ほう?」
火鉢の炭がパチパチと爆ぜる中、景雲は組んだ足の上に肘をついた。どこか意地が悪く、それでいて楽しげな笑みを浮かべる。妖艶な流し目をくれながら言った。
「ならば頑張って稼げ」
「……はい」
あ、だめだ。金を出す気はない。凜華はがっくりと項垂れた。
景雲は落胆する凜華を横目に「妃になれば金を出してやるのに」と思わないでもなかった。口にしなかったのはせめてもの矜持だ。
おねだりは失敗した。これはまあ仕方ない。空き地がもらえただけ万々歳だ。
凜華は気を取り直して言った。
「そうだ、おやきがあるよ。食べる?」
「なんだそれは」
「具入りの饅頭。焼きたてで美味しいよ」
「……ああ」
毒見を経ずにものが食べられるというだけでも、景雲はここへ来た甲斐があった。
凜華は以前、かっぱらい同然に景雲からもらった銀の小皿を取り出した。火鉢から引き上げたおやきを乗せて出した。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
「なんだ、今日はやけに甲斐甲斐しいな」
「そりゃあ、不動産のマンション……じゃなくて壺天閣をもらったわけだしね。ここは今や私の家。陛下は私の一番の太客。接待に励まなくちゃ!」
「太客、接待……」
スポンサーの次は太客扱いである。麦茶とおやきで済む接待はどう考えても安上がりすぎるが、凜華があれこれ世話を焼いてくれるのはちょっと嬉しい景雲だった。
こうして、いつものように軽口を叩き合いながら壺天閣の第一夜は更けていくのだった。
そして、翌日の昼下がり。
「ちょっとォ! これどういうこと?」
壺天閣の入り口で、凜華は積み上がった荷物を前に叫んだ。
引っ越しの荷物がやっと片付いたというのに、庭先には金糸銀糸の刺繍が施された長椅子、黒壇の円卓や椅子、漆塗りの箪笥や物入れといった高級家具が並んでいる。さらには衣類、食器類なども宦官たちの手によって次々と運び込まれてくる。
物が揃うと、皇帝のプライベートな空間をしつらえる部署である司設監の長がやってきた。彼はいわゆる皇帝専属のインテリアコーディネーターである。
「はいはい、あんた邪魔だからどいてね~。陛下の御座所を作らなくちゃいけないんだから」
とおネエ言葉で凜華を押しのけると、配下を使って室内に家具を配置してゆく。
絨毯、座布団、屏風、花瓶やその台、飾り皿などの小物も置かれる。異国の毛織物やタペストリー、水墨画を壁にかけると部屋の色彩が豊かになる。
一階はあっという間に、豪華かつ美的センスがはじけるおしゃれ空間になってしまった。
そればかりか、立派な衣桁も運び込まれ、景雲の好む黒や紫の男物の室内着が掛けられる。
これらはどう見ても「凜華の生活を豊かにする贈り物」ではなく、皇帝自身が壺天閣で快適に過ごすためのものであった。
凜華の脳裏に恐ろしい想像がよぎる。
「まさか……ここで暮らす気?」
一国一城の主になったと喜んでいたのも束の間。
凜華の城は、最高権力者の「第二の私室」として占拠されつつあった。
軒先の瓢箪が、風に吹かれてカラカラと乾いた音を立てた。どうやら壺天閣は、平穏な仙境には程遠いようである。




