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ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない   作者: kiyoaki
第一部 後宮医案・宸眷薬師の誕生

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第81話 間借りだけど一国一城の主になったぞ<上>

 さて、中国の後漢の時代、費長房(ひちょうぼう)という男が薬売りの老人が持っていた壺の中に広がる仙境に招待された。この故事を「壺中(こちゅう)の天」と呼ぶ。

 また、薬売りの老人が店先に壺(瓢箪(ひょうたん))を吊るしていたことから、後世の医者はこぞって軒先に瓢箪をぶら下げて医業の看板とした。

 壺の中でなくとも、古来より薬屋や診療所は、俗世から切り離された一種の魔術的な結界として機能してきた。

 古代の薄暗い薬局であれ、現代の白く無機質な研究所であれ、そこは未知の物質が化学反応を起こし、生と死の境界を行き来する「小さな宇宙」に他ならない。

 そんな魅惑的な小宇宙を(たとえ後宮の片隅に間借りしたボロ屋であろうとも)手に入れた研究者は、まさに天にも昇る心地なのである。


 凜華は寿寿を連れ、後宮の北にある「清玲閣」に意気揚々と引っ越しをした。

 住居房の下女たちは「凜華ちゃんがいないと寂しくなるねえ」などと涙ぐんで見送ってくれたが、よくよく考えてみれば「皇帝の唯一の寵姫」が、隙間風の入る貧乏長屋のような住居房に暮らしているというのもおかしな話であった。御殿ではないが広い屋敷への引っ越し、満を持しての栄転(?)を皆は祝福した。

 清玲閣は、建物自体は古びて年季が入っているものの、それは前の住居房も変わらない。まがいなりにも庭付きの立派な二階建てであり、階段は屋内と屋外の二ヶ所あって便利だった。以前のウサギ小屋のような生活空間に比べれば、格段に広々とした造りであった。


「さあ寿寿、じゃんじゃん荷物を運び込むよ。リフォームもしなくちゃね」

「はい、凜華さん!」

 二人が腕まくりをして掃除や片付けに追われていると、どこからともなく絃楠が若手の宦官を数人引き連れてやってきた。

「お引っ越しおめでとうございます。微力ながらお手伝いにまいりました」

 風邪はすっかりよくなったようで、絃楠の動きはきびきびしている。

 寿寿が重い木箱を「うう、持ち上がらない……」と涙目で引っ張っていると、絃楠はふわりと歩み寄り「私が運びましょう」と言ってひょいと持ち上げてしまった。

「す、すごい。絃楠さんは力持ちなんですねぇ」

 寿寿は両手を組み、頬をぽおっと染めて見惚れている。絃楠は困ったように微笑むと、そのまま木箱を運んでいった。

 凜華は「まあ男だしな……」と心の中でツッコミを入れつつ、彼らにも手伝ってもらうことにした。


 凜華の主導によるリフォームは、極めて実用的かつ合理的なものだった。

 引っ越しの荷解きが進むにつれ、清玲閣の新たな間取りが作られていく。

 一階は、パブリックスペース兼ラボである。診療所と研究室を兼ねた広い自室を中心に、凜華の寝室、居間、客間、生活に必須の台所や風呂場を配置した。

 二階は陽当たりの良い部屋を寿寿の私室とし、残りのスペースを乾物の生薬や機材を置く倉庫とした。

 入院施設を作る余裕や人員はないため、医療方針は外来診察と往診を基本とする町医者スタイルだ。


 そして、ここの最大の目玉にして最も注意が必要なのが「地下室」である。

 この建物の地下には、かつて凜華が発見した通り、物を腐らせない気体――化学的に極めて安定した不活性ガス「アルゴン」が自然に湧き出している。

 凜華はこの空間を、貴重な薬品や生鮮食品を長期保存するための「アルゴンセラー」として活用することにし、一階の入り口には鍵付きの分厚い扉を取り付けた。

 アルゴンは無味無臭で空気より重く、人間の感覚では感知できない。酸素欠乏によって一瞬で意識を失い、窒息死してしまう恐ろしいトラップにもなり得る。


「いい、寿寿。よく見ていて」

 凜華は、地下室の天井に取り付けさせた滑車を操作しながら、寿寿に実地訓練を行った。

 滑車のロープの先には、火のついた一本の蝋燭がぶら下がっている。

 凜華がロープをスルスルと伸ばし、蝋燭を地下室へ降ろしていく。ある一定の深さに達した瞬間、チロチロと燃えていた炎が音もなく消え去った。

「わあ……風もないのに火が消えました」

「そう。火が消えたあのラインから下は、酸素がなくてアルゴンが溜まってる。保存したい食品や薬は、カゴに入れてこの滑車で上げ下げして取り出す。危ないから階段は降りないで」


 階段を降りずとも、足を踏み外して落ちたりすれば死活問題だ。アルゴン層に頭から突っ込めば窒息してしまう。

「ここへは絶対に一人で入らないこと。用がある時は必ず私を呼んで。二人以上いれば事故が起きてもなんとかなるから」

「はい、絶対に一人では入りません」

 寿寿はこくこくと大真面目に頷いた。

「アルゴンはきちんと管理できれば、これほど便利なものもない。氷を置いておけば冷蔵庫にもなるし。夏場はキンキンに冷えた飲み物や氷菓子が作れるよ」

 凜華は滑車を操作しながら嬉しそうに言った。

「それはいいですね。楽しみです」と寿寿もはしゃぐ。


 冷えた炭酸ソーダにかき氷、砂糖と乳で作るアイスクリーム等を思い浮かべると、凜華の咥内にも唾がわいてくる。アルゴンをうまく使えば、異世界でも冷たいスイーツが楽しめるのだ。

「ここは氷も溶けないんですか?」寿寿の何気ない質問にハッと我に返る。

「溶けるけど、アルゴンに浸けておくとはるかに長持ちする。銅の壺に氷と塩を詰めて降ろしておけば、周囲のものが冷える。氷が溶けきったら壺を引き上げればいいわ」

 化粧品の在庫はアルゴンセラーに置いておき、売れたら運び出せばいい。薬も時間がある時に作り置きをして、保存しておくことができる。


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