第80話 専用のラボを賭けて「笑い死にの部屋」の謎に挑む<五>
数日後の昼。
凜華は時間を作ってやってきた景雲および宦官たちギャラリーを廃墟の前に集め、青空教室さながらの解説を始めた。
「まず、人が笑い死にする原因から説明します。かつてここにあった尚服局の分室では、練り香や香水を作るための大量の豚脂や牛脂、花の搾りかすが保管されていた。さらに、香料の冷却や火薬に使われる『硝石』も大量にあった」
景雲が口を挟む。
「香を作るにも硝石を使うのか」
「そうみたい。もしかしたら、硝石が大火災の原因になったのかもね」
「もしや爆発したのか?」
凜華はゆるりと首を横に振った。
「ここはちょっとややこしいんだけど、硝石自体が爆発することはない。でも火災を爆発的な規模へ変貌させる最悪のブースターになる。火災で大勢の犠牲者が出たから、外廷で保管するようになったんじゃないかな」
凜華は地面に木の枝で図を描きながら続ける。
「硝石は火薬や薬の原料になるんだけど、簡単に言うと『窒素』と『酸素』の塊なの。で、火災で地下室が密閉されてしまった。すると酸素がなくなってしまう。酸素がなくなると、土の中の『嫌気性細菌』つまりバクテリアが窒息しそうになった」
「ばくてりあ?」
「バクテリウムの複数形。目に見えない大量の虫みたいなもん。彼らは生きるために酸素が必要。なので硝石から無理やり酸素を奪い取って呼吸を始めたの。これを『脱窒』と呼びます」
通常、バクテリアは空気中の酸素を使ってエサ(炭素)を燃やす。密閉された地下室で酸素がなくなってしまうと、一部のバクテリア(脱窒細菌)は「酸素の代わり」に硝石(硝酸カリウム)の中にある酸素を奪ってエサ(炭素)を燃やし始める。
その結果、硝石から酸素がどんどん奪われていき、残った窒素とわずかな酸素が結びついてガスとして放出される。これが「亜酸化窒素」で、人間にとっては有害なガスになる。
「地下室には大量の油脂や花のカスがあった。これは炭素だからバクテリアのエサになった。結果として、酸素を奪われた硝石は、最終的に高濃度の亜酸化窒素……つまり、吸い込むと多幸感をもたらし、麻酔作用で昏倒させる笑気ガスとなって部屋に充満したってわけ。酸素が抜けきればただの窒素になって無害なんだけど、微妙に残ると毒ガスになっちゃうんだよね」
理路整然とした説明に、周囲は静まり返った。
目に見えない極小の虫が、土の中で生きるために人を笑い殺す毒気を作ってしまうという事実は、彼らにとってはどんな幽霊よりも途方もない話だった。
「なるほど、笑い死にする気体の正体は理解した」
景雲は深く頷いた。
「だが『追いかけてくる緑色の火の玉』はどうなのだ。ガスが自ら燃え、意思を持ったように人を追う理由は説明できまい」
「そこが面白いところ」
凜華はニヤリと笑うと、あらかじめ回収しておいた緑青まみれの古い青銅の蒸留管を拾い上げた。
「まず火の玉の発生源だけど、腐敗した動物のタンパク質からは『リン化水素』――ホスフィンというガスが発生する。これは空気に触れると自然発火する性質があるの。ホスフィンが地下で引火して火の玉になる。でもって、なぜ緑色だったのか。それは、この古い青銅の管から出た錆『緑青』――つまり銅の微粒子が、ガスの燃焼に巻き込まれたから。銅を燃やすと、炎は青味がかった緑色になる」
「炎色反応というやつか」
景雲はカリウムやタリウムの炎色反応を見た時のことを思い出した。確かタリウムの実験の時、凜華は「銅は緑色」と言った。
「そうそう。そして、火の玉が人を追いかけてくる理由。これも呪いでもなんでもない。ただの『スリップストリーム』です」
「すりっぷ……。なんだそれは?」
「百聞は一見にしかず。陛下、ちょっとそこに立っていて」
凜華は、用意していた小さな蝋燭に火を灯し、さらに煙がよく出るお香を一本くわえさせた小さな香炉を地面に置いた。
そして、景雲から十歩ほど離れた位置に立つと着物の裾をたくし上げ、突如として景雲に向かってダッシュしたのである。
「うおっ! 何をする!」
ぶつかりそうになって驚く景雲の脇を、凜華は疾風のように駆け抜けた。
その瞬間である。
景雲の目には、はっきりと見えた。
凜華が走り抜けたその軌跡――彼女の背中のすぐ後ろに、置かれていた蝋燭の炎がぐわっと引き寄せられるように傾き、香炉から立ち昇っていた煙が、凜華の背中を追いかけるように、一本の白い尾を引いたのだ。
「はぁ、はぁ……見ましたか陛下」
息を切らしながら戻ってきた凜華は、得意げに胸を張った。
「これが空気の流れ。人が全力で走って逃げる時、その後ろには『空気の薄い空間』要するに低気圧ができる。これをスリップストリーム、空気の渦と呼ぶの。火の玉を構成するホスフィンは空気より軽い。だから、怯えたお妃さまが背を向けて猛ダッシュしたことで、自分が走って作った『空気の道』に、軽い火の玉が引き寄せられてついてきただけなんです」
「走って作った道に引き寄せられただけ……」
「ええ。もしあの時、お妃さまが立ち止まってやり過ごしていれば、火の玉なんて軽いから勝手に上へ昇って消えてたはず」
幽霊の哄笑は、気流の共鳴。
笑い死にの呪いは、嫌気性バクテリアの脱窒による亜酸化窒素。
そして追いかけてくる緑の火の玉は、リン化水素の自然発火と銅の炎色反応、それから逃げる人間自身が作り出したスリップストリーム。
全ての怪奇現象が、寸分の隙もない物理法則と化学によって白日の下に晒された瞬間であった。
「これが、後宮を震撼させた『開かずの間』の怪談の全貌です」
少しして、景雲は潔く負けを認めた。
「そうか。見事だ。お前の言う通り、幽霊の仕業ではなく自然の悪戯だったか」
「わかっていただければ結構です。で、陛下。お約束の件は?」
凜華は、ちょいちょいと催促するように手を差し出した。
「そう急くな」
景雲は呆れ半分、愛おしさ半分といった顔で苦笑すると、李元に目配せした。
元から用意していたのだろう、李元は布の上に重々しい鉄の鍵束を乗せて恭しく差し出した。
景雲は、凜華の手のひらにポンと鍵を落とした。
「清玲閣の鍵だ。お前の好きにするがいい」
「やった~! ありがとうございます。もう陛下さまさま!」
幽霊部屋の謎を解明し、ついに「専用ラボ」と「アルゴンセラー」を手に入れた凜華は、この日一番の大輪の笑顔を見せた。
かくして、かつては恐れられた怪奇スポット「清玲閣」は、凜華の新たなる城へ転身することになった。




