第79話 専用のラボを賭けて「笑い死にの部屋」の謎に挑む<四>
翌日の昼間、凜華は廃墟の地下室へ調査のために潜ることにした。
宦官たちの手によって、周囲の瓦礫が撤去される。
立ち入りを禁じる赤錆びた鎖も引き上げられ、妃が肝試しで降りて行った地下へと続く石段が、ぽっかりと口を開けた。
皇帝の寵姫に万が一のことがあってはいけない。李元は外廷に戻ったが、言いつけられた部下たちが遠巻きに様子を伺っている。
凜華は、腰に太い麻縄をしっかりと巻き付けた。その縄の端を握るのは、顔を青ざめさせた寿寿だ。
「いい? 私が縄を三回引いたら全力で引き上げて。二回なら少し緩める。一回ならそのまま待機。わかったわね?」
「は、はい、凜華さん……。でも、本当に一人で行かれるのですか? 笑い死にさせる幽霊がいるんですよ。危ないですよぉ」
「幽霊ね。真昼間から出て来てくれるなら願ったり叶ったりだわ。私一人でいいよ。素人が来ても危ないから」
凜華は豪胆に言い放つと、濡らした厚手の布に石灰水を染み込ませた即席の「防毒マスク」を顔に巻き付けた。
すぐ近くには、呼び出された周但娘が水桶や強心薬、鹿角塩の入った小瓶を並べて待機している。彼女は凜華が倒れた時の救命要員だ。
自発的に来たわけではなく、李元が直接迎えに来た。表向きは「調査に入る凜華殿を補助して欲しい」とのお願いだったが、彼が来た以上は皇帝の意向と考えて差し支えないだろう。お願いという名の実質強制である。
「どんだけ過保護なのよ」と心中で悪態をつきつつも、断ったらどんな不利益を被るかわからない。しぶしぶながらも、救命用の薬を携えてやってきたのだ。
但娘は一応にも声をかけた。
「無理はやめてよ。地下には毒が充満してるんでしょ。脈拍が乱れたり、指先が痺れたりしたらすぐに合図を出して。あんたに何かあったら私が責められるんだから」
「わかってる。じゃあ、行ってくる」
凜華は手燭を掲げ、階段へそろりそろりと足を踏み入れた。
地下へ降りるにつれ、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。
階段を降り切った先には、焦げた梁が折り重なり、調香のための道具が泥に埋もれていた。
「……この匂い」
凜華の鼻を突いたのは、熟れすぎた果実のような、あるいは芳香剤を煮詰めたような甘い香りだった。
扉は焼け落ちていた。
部屋に入ると、焼け残った青銅の配管が壁を這っているのが見えた。配管の継ぎ目から、ヒュウ、ヒュウという奇妙な音が漏れている。それが反響して、遠くで女たちが声を押し殺して笑っているかのように聞こえる。
焼け焦げた床材の隙間から、不気味に揺らめく翠色の鬼火が這い出し、凜華の動きに合わせてゆらゆらと後を追ってくる。先日、妃が言ったことは本当だったのだ。
凜華は冷静にヘドロが溜まった床を観察した。
そこには、かつての火災で焼け残った大量の硝石と香の原料である動物性油脂、朽ちた大量の草花が重なり合っていた。
これらが混ざり合って、数十年の時をかけて発酵を続けている。
「密閉された空間、豊富な有機物、酸素源としての硝石……。なるほど、ここは巨大な『フラスコ』だったわけね」
彼女は床のヘドロを棒で掬い取ると、手燭の炎を近づけた。炎は消えるどころか、パチパチとはぜるように一際明るく輝いた。
酸素ではないが、燃焼を助ける性質を持つ気体が発生している証拠だ。
その時、急激な多幸感が凜華を襲った。
頭の芯がぼうっとする。暗い地下室にいるはずなのに、なぜかおかしくてたまらない。頬の筋肉が勝手に引きつり、唐突な笑いが込み上げてくる。
「……きたわね」
意識が飛ぶ前に戻らないといけない。
凜華は左手で右手の皮膚を強くつねった。意識を強く保ったまま、縄を強く三回引いた。
「三回だ。凜華さあああん!」
寿寿の声が聞こえる。縄が一気に引かれる。凜華も縄を手繰るようにして出口へ向かった。
凜華が必死に縄を伝って地上に戻ったのは数分後のことだった。
「凜華さん、大丈夫ですか」
話しかけた寿寿に、凜華はマスクの下で大口を開けた。
「ははっ……ふふふ。ふはははっ!」
「わ、笑ってる!」
寿寿が怯えた顔をしてのけ反る。
「あははっ、但娘! 違う、ははっ。早く、酸素。うちわ、をあお……いで、うふふふふ!」
凜華は大声で笑いながら、汚れた防毒面を脱ぎ捨てた。大袈裟に手を振って酸素を求める。
「こわっ! ちょっとしっかりしなさいよ」
但娘が団扇で勢いよく扇いで風を送る。
凜華は喘ぐようにして、何度も大きく息を吸った。
思った以上に地下の空気を吸ってしまったのか、頭がくらくらする。
但娘が差し出した気付け薬を嗅ぎ、ゆっくりと水を飲むと、ようやく奇妙な笑みが消えた。瞳に理性が戻ってくる。
「あ~生き返った! 悪いわね、二人とも。おかげで助かった」
「凜華さん、無事で本当によかった。地下室で何が起きたの?」寿寿が心配そうに手を握る。
「あんた、笑いながら戻ってきたのよ。不気味極まりなかったわ」但娘の呆れたような声。
凜華は地下室の入り口を指差した。
「笑いたくて笑ったわけじゃないよ。幽霊の正体はやっぱりガスよ。地下には『笑気ガス』が発生していた」
「笑気ガス……?」寿寿が首を傾げる。
「吸い込むと笑ってしまう気体。笑気ガスといっても、エチレンとかシクロプロパンとか色々あるんだけどね」
「そんなのにも種類があるんだ」但娘は腕組みをし、神妙な顔になった。
「今回は、地下室の状況と匂いで『亜酸化窒素』だと思う。吸い込めば中枢神経が麻痺して、お酒に酔ったような多幸感に包まれる。だから、恐怖を感じるはずの場所で笑いが止まらなくなるのよ。お妃が倒れたのは呪いではなく、高濃度のガスによる麻酔作用で意識を失ったってわけ」
凜華は但娘に向き直り、医学的な解説を加えた。
「但娘、これは医療にも使えるけど扱いを間違えればそのまま窒息死する劇薬よ」
「入れば笑い死ぬってのは本当だったのね」
「うん、危険なところには変わりない。といっても換気すれば安全になるから」
地下室を見つめる凜華の目は、自然の理を解き明かした学者のそれだった。
凜華は、少し離れて突っ立っている宦官たちを呼んだ。
「中には入らなくていいから、地下室の扉前と周辺を片付けて。溜まった瓦礫が空気の流れを止めている。一つ残らず、徹底的にね」
集められた宦官たちは、必死に焦げた梁や崩れた木材、煉瓦を運び出していく。
やがて地下室周辺はすっかりきれいになった。
「凜華さん、入り口は片付きましたけど。まだ中は危ないのでは?」
寿寿が不安げに袖を引く。凜華はこともなげに答えた。
「うん。亜酸化窒素は空気よりずっと重いの。ただ扉を開けただけじゃ、見えない毒気が底に溜まったまま。今からそれを引き摺り出すわ」
次に凜華が用意させたのは、煮炊きに使う大釜で真っ赤に熱した大量の焼き石だった。
「火を直接持ち込んじゃだめ。亜酸化窒素は、酸素より激しく火を燃え上がらせる『助燃性』があるから。下手に松明でも投げ込めば、大火災になって私たちも巻き込まれちゃう」
宦官たちは凜華の指示通りに長い十能を使って、入り口や明かり取りの穴から、焼き石を地下室へ投げ込み始めた。
ジュウウウという鈍い音が中から響き、熱気が地下の底を叩く。
「熱は空気の重さを変える。冷たくて重いガスを底から温めて、無理やり空へ押し上げるのよ」
凜華の言葉通り、石が投げ込まれるたびに、入り口付近の空気が揺らめき始めた。
地上の冷たい空気が入り口から吸い込まれ、代わりに地下の底に溜まっていた重いガスが、熱による上昇気流となって外へと吐き出されていく。
凜華は入り口に目印として掲げた薄い布が、内側から外へ力強くたなびくのを見届けた。
「対流が起きたわ」
笑い死にを招く甘い香りの毒は、凜華が仕掛けた「熱の理」によって空へと霧散し、無害な地下室へとその姿を変えた。
「これで掃除はおしまい。一応確認してくるね」
凜華は満足げに頷き、再び手燭を持つと、安全になった階段の先へ迷うことなく足を踏み入れた。
寿寿と但娘は後ろ姿をじっと見守る。
凜華が入っていってしばらく経っても、笑い声は聞こえてこなかった。




