第77話 専用のラボを賭けて「笑い死にの部屋」の謎に挑む<二>
数日後の深夜。
後宮の静寂は、絹を裂くような悲鳴によって破られた。
「誰か! 誰か来てちょうだい! お妃さまが、お妃さまが幽霊に」
悲鳴の主は、若く勝気な妃に仕える侍女であった。
退屈な後宮生活に飽き飽きしていたその妃は、自らの度胸を誇示するため、怪談を鼻で笑った挙句、引き止める侍女たちを伴って深夜の「肝試し」を決行したのである。
崩れかけた廃墟の扉の奥へ足を踏み入れて少しすると、突然「あはははは!」と狂ったように笑い出し、そのまま倒れ伏してしまったのだ。
「笑い死にの部屋だ! 幽霊の哄笑だ!」
付近は瞬く間にパニックに陥った。
騒ぎを聞きつけた宦官たちが、長い竹棒の先につけた鈎爪を妃の帯に引っかけて、ズルズルと外へ引きずり出した。妃の顔はすでに土気色に変わっていた。
「そこ、どきなさい! 道を開けて!」
薬箱を抱えた凜華が現場に駆けつけたのは、まさに妃の呼吸が止まらんとする瞬間だった。彼女は倒れた妃の胸元を緩めて気道を確保すると、周囲を取り囲む宦官たちを一喝した。
「あんたたち、人垣を作らない! 酸素が足りないのよ、新鮮な空気をこっちへ送って。団扇でも着物の袖でもなんでもいいから全力で扇いで!」
凜華の剣幕に気圧され、宦官たちは風を送り始める。
「呼吸が浅い……酸欠と、何かの中毒症状ね。よし、これの出番だわ」
凜華は薬箱から陶器の小瓶を取り出した。栓を抜いた瞬間、ツンとした強烈な刺激臭が周囲に放たれる。それは、鹿の角や蹄を高温で焼いて作られる「鹿角塩」――現代で言うところの炭酸アンモニウムの結晶である。
古来より西洋でも東洋でも、失神した貴婦人を叩き起こすための「気付け薬」として重宝されてきた。この強烈なアンモニア発生源を、凜華は容赦なく妃の鼻先へ突きつけた。
「さあ、起きて。深呼吸よ!」
猛烈な刺激臭が鼻腔の三叉神経から脳天を直撃した瞬間、妃の体はビクリと跳ね上がった。
「……げほっ! がはっ! 痛い、鼻が……鼻がもげるうっ!」
窒息しかけたのが嘘のように、妃は涙と鼻水を撒き散らしながら激しくむせ返り、新鮮な空気を肺の奥底まで吸い込んだ。
「脳への強烈な刺激で呼吸反射が戻ったわね」
凜華は小瓶の栓を閉めると、涙目で咳き込む妃の背中をさすった。
「もう大丈夫。ただの酸欠からの失神だから、風通しのいいところで休んでいれば後遺症も残らないわよ」
幽霊の呪いを物理的な悪臭で打ち破った凜華の手際に、周囲の者たちは口をあんぐり開けた。
妃は凜華の胸に縋りつくようにして叫んだ。
「違うの。幽霊はいたわ。緑の火の玉が追いかけてきたの。あれは呪われし霊魂よ。急いで逃げたけど捕まってしまって……」
「緑の火の玉……ねぇ」
半信半疑な凜華に妃は半狂乱になる。
「嘘じゃないわ。信じて!」
「わかったわ。調べるから。あなたは安静にしていて」
妃が侍女たちに支えられながら運ばれてゆくと、凜華は松明の明かりを頼りにして、廃墟の入り口付近にしゃがみ込み、注意深く観察を始めた。
背後から、「凜華」と呼ぶ声が聞こえる。
振り向くと、景雲が立っていた。
今夜も遅まきながら後宮に来て、いつも通り凜華を呼ぼうとしたら西の方で騒ぎが起きた。妃が倒れ、凜華が向かったという。どうせならと、景雲も現場にやってきたのだった。
彼の周囲には屈強な護衛が控え、廃墟から漂ってくる不気味な空気に怯えている。
景雲は廃墟をじっと見ながら言った。
「よくやった。もしあのまま放置されたら『笑い死に』になったのか?」
「笑い死に、じゃなくて窒息死ね」
凜華は立ち上がると、パンパンと膝の土を払った。
「陛下。この『開かずの間』は怪談でもなんでもないよ。たぶん放置された『密閉発酵槽』が引き起こした大規模なガス漏れだと思う」
「がす?」
「気体のこと」
凜華は廃墟の入り口に近づくと、崩れた床板の隙間から顔を覗かせている、緑青(サビ)に塗れた古い金属の管を指差した。
「これは香料を蒸留するための青銅の管だよね。地下の貯蔵庫は、火災の瓦礫で密閉状態になってしまった。そこに残された大量の植物や動物性の香料の原料……おそらくは麝香とか尿素を含んだものが、長い年月をかけて地下で嫌気性発酵を繰り返した。そして大量のガスを発生させたんだと思う」
「気体が笑い声を出したというのか?」
「違う。地下でパンパンに膨らんだガスが、地上へ逃げようとして、焼け残った青銅の管のひび割れを通って噴き出したの。ちょっと聞いてみて」
凜華は、その辺に落ちていた石を拾うと床板の隙間を塞いでいた泥を叩いて落とした。
次の瞬間、地下から漏れ出す気流の量が増え、奇妙な共鳴音が鳴り響いた。
――ふふっ……あはははは、ふふふ。
「ヒィィィッ! 幽霊の笑い声だ!」
護衛が一斉に頭を抱えてしゃがみ込む中、凜華は呆れたように首を振った。
「幽霊でもなんでもない。漏れ出したガスが管の隙間を通り抜ける時に鳴る『笛の音』、つまり気流の共鳴。ただの物理現象だよ。それが、風の強弱で女の笑い声みたいに聞こえていただけ」
凜華は管の隙間に指を当てて空気の流れを変え、意図的に音の高低を変化させてみせた。
「ほら。理屈さえわかれば大きなオカリナと同じよ」




