第76話 専用のラボを賭けて「笑い死にの部屋」の謎に挑む<一>
さて、古代ギリシャの哲学者クリシッポスは、ロバが自分のイチジクを食べている姿があまりにも滑稽であったために笑い転げ、そのまま窒息して「笑い死に」したと伝えられている。
人間の身体は案外脆く、極度の哄笑は横隔膜の痙攣や脳への酸素供給の遮断を引き起こして、命を奪う危険性を孕んでいる。
そんな致死性の笑いを誘う幽霊部屋が後宮の片隅に存在し、無謀な妃がゲラゲラと笑いながら昏倒したとなれば、これはもう怪談というよりは立派なバイオハザード案件である。
「……はあ。やっぱり、妃になれっていうお誘いを断ったのはマズかったかな」
自室で、凜華は卓の上に広げた木簡を前に、深々とため息をついた。
先日の雨の夜、彼女は景雲からの求婚を「今のままでいい」とあっさり断ってしまった。後宮のドロドロした権力闘争に巻き込まれたくないという判断は、リスク回避の意味では正しいのかもしれないが、ここは絶対権力者が支配する宮廷。
凜華がプレゼンした「薬用炭を作るための本格的な炭焼きかまどの建設」は見事に保留にされてしまった。
「断るにしても、もう少し言い方があったかも。もっと上手に言えば陛下だって……」
薬用炭は、毒物の中和や腸内環境の改善に欠かせない重要な素材……であるが、そう考えているのは凜華だけ。
皇帝の後ろ盾と資金がなければ、煉瓦一つ、職人一人動かせないというのが現実であった。
「わかっちゃいたけど、スポンサーの機嫌次第なんだよなあ。も~!」
凜華がブツブツと愚痴をこぼしていると、寿寿が小走りで部屋に駆け込んできた。
その顔は、幽霊でも見たかのように青ざめている。
「凜華さん、凜華さん。大変です。また出たそうです!」
「出たって何が? 炭焼きかまどの許可?」
「違いますよ。西の端にある『開かずの間』の幽霊です」
「開かずの間?」
寿寿はガタガタと震えながら、後宮の女たちの間でまことしやかに囁かれている恐ろしい怪談を語り始めた。
後宮の北西の端にある廃墟にまつわる噂である。そこはかつて外廷にある「尚服局」に属し、皇帝や妃たちが身にまとう衣服に焚きこめる香を調合する「掌香」の施設であった。
数十年前の大火災で全焼し、数多の職人が焼け死ぬといういわく付きの場所である。
建物の地上部分はすっかり焼け落ちてしまったが、崩落した太い梁や床材、大量の瓦礫が分厚い蓋となり、香料の原料を熟成させるための「地下の貯蔵庫」が、半密閉状態のまま地中に取り残された。
以来、その地下室は「開かずの間」として閉ざされていたのだが、最近になって奇妙な現象が頻発するようになったという。
夜に廃墟の近くを通ると、地底から女たちの楽しげな「ふふふ……あはははっ」という笑い声が聞こえてくる。
さらに、窓の隙間や腐った床下からは、生き物のようにゆらゆらと蠢く「緑色の炎」が飛び出し、侵入者を追いかけてくるというのだ。
「何より恐ろしいのが……」
寿寿は声を潜め、周囲を窺うようにして言った。
「その部屋に足を踏み入れた者は、幽霊に取り憑かれてゲラゲラと笑い転げ、そのまま昏睡して二度と目を覚まさないそうです」
「死んじゃうってこと?」
「はい。『笑い死にの呪い』です。要するに狂い死にです。凜華さんも、あの辺りには絶対近づいちゃだめですよ」
「笑い死に、ねぇ」
「ううっ、笑い死ぬなんて怖い……!」
震える寿寿とは対照的に、凜華の瞳には研究者特有の好奇心の光が灯る。
「地下の密閉空間、追いかけてくる緑色の炎、多幸感で笑い転げ、昏睡を引き起こす……。なんだかすごく『化学の匂い』がするんだけど」
炭焼きかまどの建設が進まず、鬱憤が溜まる凜華にとって廃墟は格好の研究対象に思えた。
その謎を解き明かす機会は、彼女が想像していたよりもずっと早く、しかも悪い形で訪れることになる。




