第73話 この世界では天涯孤独でいよう<上>
さて、戦国時代などにおいて、他国との同盟や和睦の証として子息を「質」として送り込むのは、現代における名刺交換のごとく極めてありふれた外交であった。
人質を取る、これは裏を返せば「身内という弱みがあれば人間は簡単に操作できる」という身も蓋もない真理の証明に他ならない。
情とは非常に厄介なものであり、敵に一番突かれやすい弱点となる。だからこそ異世界の政治の舞台においては、人質など取りようがない「天涯孤独」であることが、生存戦略になるのかもしれない。
しとしとと冷たい雨が、後宮の甍を濡らしていた。
長楽殿の奥深くにある皇帝の執務室。無数の蝋燭が揺らめく中、景雲は机の前で眉間を揉みほぐしていた。
雨天特有の気圧の変化に加え、連日の政務による疲労とストレスが重なり、彼の頭の中では鉛の鐘が乱打するような酷い痛みが暴れ回っていた。
「あ~こりゃ見事な緊張型頭痛と偏頭痛のダブルパンチね。首から肩にかけての筋肉もガチガチに固まってるわ」
景雲の背後に回り込み、その首筋を押しながら呆れたように言ったのは、今や皇帝の事実上の主治医となった凜華だった。
彼女は手早く脈と舌の様子を確認すると、部屋の隅に設えられた小さな調合台へと向かった。
「ちょっと待ってて。今、即効性のあるやつを淹れるから」
凜華は、小気味よい音を立てながら薬研で生薬を挽き始めた。
使用するのは、血の巡りを良くし頭痛や肩こりに特効がある「川芎」と、鎮痛作用に優れたケシ科の植物の塊茎「延胡索」である。
これらを細かく粉砕し、通常であれば薄荷などと共に煮出すところだが、彼女の処方は一味違った。
あらかじめ用意させた茶葉を茶壺にたっぷりと放り込み、熱湯を注いでこれ以上ないほど「濃く」抽出した。濃い緑色の茶液に、挽いた生薬の粉末を溶かし込んだのだ。
「はい、お待たせしました。特製の速効型頭痛薬だよ。宋代から伝わる名薬『川芎茶調散』の私なりのアレンジバージョン。とにかく熱いうちに一気にいって」
差し出された椀からは、生薬の土臭さと強烈な茶の香りが入り混じった異様な湯気が立ち上っている。
景雲は半信半疑のまま、鼻をつまむようにしてそのどす黒い液体を煽った。強烈な苦味と、川芎のセロリに似た香りが胃の腑へと落ちていく。
「うっ、苦い! 舌が痺れるほど濃いな」
「その『濃いお茶』がミソなんだって」
顔をしかめる景雲に対し、凜華は得意げに解説を始めた。
「お茶にはね、『カフェイン』っていう成分がたっぷり含まれてるの。このカフェインには、頭の中で異常に拡張して神経を圧迫している血管を『収縮』させる作用があるのよ。それに加えて覚醒作用と利尿作用が、川芎と延胡索の鎮痛成分を『倍速』で全身の血流に乗せて回してくれる。つまり、お茶の苦味はそれ自体が強力なブースターエンジンってわけ」
凜華の言う「かふぇいん」だの「ぶーすたーえんじん」だのはよくわからないが、論より証拠である。
薬の効能は、景雲の肉体が雄弁に証明した。数分もしないうちに、後頭部から眼窩の奥を締め付けていた重苦しい痛みが、嘘のようにスッと引いていったのである
苦い茶の波が、脳内の泥をきれいに洗い流したかのようだった。
「……見事だ。頭の中に爽やかな風が吹いたようだ」
景雲は瞳を瞬かせ、自らのこめかみに触れた。痛みが消えたことで、張り詰めていた神経も緩む。
「でしょ? お茶のカフェインと生薬の相乗効果。胃には負担がかかるから、何かお腹に入れてね」
景雲は空になった椀を片付ける凜華を、熱を帯びた眼差しで見つめた。
優秀な官僚や将軍はそれなりにいるが、己の肉体の苦痛を魔法のように消し去ってくれるのは、この世で彼女ただ一人。
有能極まりない薬師に対する愛おしさが、ふつふつと湧き上がってくる。後宮では常に傍らに置いている女、伴侶としてもこれ以上の逸材がいようか。
「凜華」
雨音だけが響く室内で、景雲は思い切って口を開いた。
「以前から保留にしている件だが……。そろそろ返事を聞かせよ」
「えっ、何?」
「お前を私の妃にする。よもや異存はあるまいな?」
それは、皇帝としての絶対の命令であると同時に一人の男としての切実な求婚であった。
権力、財力、名誉。
凜華が望むなら、この国で最も価値のあるものすべてを与えてもいい。そうまでしても、彼女を自分のものにしたいという強い意志の表れであった。
当の凜華は、火鉢の灰を突ついていた火箸をピタリと止めた。ひどく困ったような、どこか面倒くさそうな顔をしてゆっくりと振り返った。
そして、顔を赤らめることも平伏することもなく、極めてフラットな声でこう言い放ったのである。
「陛下。そのお話だけど」
「うむ」景雲は一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ませた。「諾」以外はありえないと信じた。
「私は今のままでいいよ」
「……なんだと?」
「このままでオッケー」
「このままで桶?」
「うん」
凜華は意図的に明言を避けている。
ここで好きだ嫌いだタイプじゃない等を言い出せば、揉めるのはわかりきっている。
「つまり……どういうことだ?」若干混乱しながら景雲は問うた。
「妃じゃなく薬師でいたい」
「結婚は……断るということか?」
「そうだね」
あまりにもあっさりとした返答。遠回しながらも明確な拒絶。
景雲は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
頭痛薬を飲んでおいて本当によかった、と別の意味で安心するほどのショックである。




