第74話 この世界では天涯孤独でいよう<中>
景雲の端正な顔に、サッと朱がのぼる。
「……断る。この私の求婚を、か?」
「失恋」という、皇帝であれば本来無縁であるはずの単語が胸に突き刺さる。「そんなまさか」のまさかである。
国の頂点に立つ君主に対し、一介の薬師が「今のままでいい」と袖にするなどありえない。ありえないのだが、心のどこかに「やはりか」という諦念に近い予感があった。
返事を保留にされた時点で、凜華が結婚に乗り気でないことはわかっていた。
それでも「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいかない。
「どういうことだ。私が不満なのか」
「違うよ」
「それなら、お前には想い人でもいるのか」景雲の声に不穏なものが混じる。他に男にいるなら即刻排除せねば、と密かな殺意さえいだく。
「いないよ」
「ならば私と添うてもよいだろう」
「あなたはもう結婚してるじゃない」
「それがどうした」
「どうしたもこうしたも……」
凜華はうんざりした顔で、正面の椅子に腰掛けた。
「大体、私が妃になって得することはないんだから」
「杏花殿や高い地位を得られるではないか」
なぜこれほどの好条件でなびかないのか、景雲は理解できない。
「それよりもリスクの方が高いって」
凜華は大きく息を吐くと、容赦のない現実論を展開し始めた。
「私だって、ここがどういうところかくらいはわかってるよ。後宮ドラマや小説にはまったく興味がなかったけど、授業で歴史や古典は習ったからね。有力貴族の娘が、一族の権力を背景にしてマウント合戦する場でしょ? そんなところで、身寄りも後ろ盾もないただの薬師が妃になったらどうなるか。あっと言う間にいびり倒されるか、派閥争いの当て馬にされて毒を盛られるのがオチだって」
「私がお前を守る。誰にも手出しはさせん」
「気持ちは嬉しいけど、陛下だって四六時中ここにいるわけじゃないでしょ。宮城にいないこともあるし」
「だがな……お前は後宮の女なのだぞ。私と結ばれる以外に道はないのだ。潔く諦めよ」
「私はここで薬を作って、あなたの健康を守れればそれで十分。政治的なあれこれや、女同士のドロドロとした愛憎劇に巻き込まれるのはごめんだから」
凜華の言葉は身も蓋もなかったが、後宮というシステムの残酷な本質を見抜く、極めて冷徹な真理が含まれていた。
「ああ言えばこう言う。理屈ばかりこねおって」
「饅頭か餃子が作れるくらいには、こねてこねてこねまくるよ。命がかかってるもん」
「……」
景雲は押し黙った。業腹だが、凜華の言うことは間違っていない。
後宮とは、皇帝の家庭であると同時に貴族や外戚たちの権力闘争の最前線。妃たちは後ろ盾がすべてで、これがないと身を守れない。
どこの馬の骨とも知れぬ娘が皇帝の妃となれば、既存の勢力から嫌がらせされ、暗殺の標的になることは火を見るよりも明らかだった。
「……まったく」
どうしてくれようか。もやもやと晴れやらぬ鬱屈を抱えたまま、彼は疲労の滲む息を吐いた。
夜伽を拒否され、結婚も断られと散々であるが、凜華に(この世界の)常識を期待しても無駄なことはわかっている。
それに……と、彼は別の懸念もいだいた。
もし結婚を無理強いしたら、凜華は自分を疎み、避けるようになるかもしれない。挙句にここから逃げようとするかもしれない。もちろん逃げ切れるはずはなく、すぐに捕まってしまう。
そうなれば、景雲は凜華を処罰するほかない。百年前に宦官と密通して処刑された(ことになっている)露珂妃の例を出すまでもなく、皇帝を裏切った女は「死」あるのみ。景雲が庇おうとしても周囲が許さない。
凜華を愛しいと思うがゆえに、そんな状況には追い込みたくない。
彼女は後宮に暮らし、日々己のために薬を作っている。
手の届く場所にいて、夜は自分と寝所を共にしている。当面はこの事実だけで満足すべきか。
悶々としつつも景雲は言った。
「とはいえ、お前が持つ医学と薬の知識は尋常ではない。学識があるならば、そう卑しい出自とは思えん。お前は異国生まれの貴人ではないのか」
結婚を諦めたわけではなかった。凜華が異国の王女や貴族の出身であるならば、身分は釣り合う。まだ芽があると期待したのだが……凜華の返事は違った。
「ううん、至って普通の平民だよ。というか身分制度自体がないし」
「お前の故郷に皇族や貴族はいないのか?」
「皇族はいるよ。皇帝も……いるっちゃいる。貴族はいない。戦争に負けて貴族は廃止されちゃったから」
「戦争……」
急に生々しい単語が出て来て、景雲は緊張を覚えた。
どうやら凜華の故郷は、敗戦の憂き目に遭ったようだ。敗れた国や地域がどうなるかといえば、王侯貴族は処刑され、人民は奴隷にされるのが常。皇族は許されて延命したが、主だった貴族たちは処刑されて家ごと断絶させられたのか。
「では市井の医家の娘なのか?」
「うーん」凜華は腕を組み、天井を見上げた。
「医家、というのはちょっと違うけど。自営だし世襲と言えば世襲かな」
凜華の脳裏に、かつて自分が生きていた現代日本での賑やかでどうにも薬臭い家族の記憶が蘇った。
凜華の家は、見事なまでの「女系の薬屋一家」である。
祖母は現役の薬剤師で、地方の田舎町で調剤薬局を経営している。伯母とその旦那も薬剤師であり、祖母の薬局で共に働くという典型的な家族経営だった。
伯父は総合病院の内科医、凜華の母親も薬剤師の資格を持っていて、近所の大型スーパーに併設された薬局で働いている。三歳下の弟も、去年無事に薬学部を卒業し、全国展開する大手ドラッグストアに就職したばかりだった。
母方の親戚の集まりといえば、最新の抗生物質の効き目から、ジェネリック医薬品の是非、果ては近所の病院のヤブ医者の噂など医療と薬のオンパレード。
そんな環境で育てば、否が応にも生薬と化学式の申し子になるというものだ。
凜華が薬学の道に進み、天才的な調剤センスを開花させたのも、幼い頃から生薬の匂いを嗅ぎ、医学の専門用語を子守唄代わりに聞いて育ったからかもしれない。




