第72話 初心に帰って葛根湯を作ろう<下>
「えっ、そんなことまで知ってるんだ」
凜華は驚いた。間諜なのだから立ち聞き、盗み聞きはお手の物、自分と景雲とのあれこれを知っていてもおかしくないが。
「本当なんですか」自分から聞いておきながら、絃楠は意外そうな顔をした。
「どういうこと?」
「いえ、そんな噂を聞きまして……」どうやら確信はなく、カマをかけただけらしい。なーんだと凜華は拍子抜けした。
「最近、急に杏花殿の手入れが始まったものですから。李中官が『凜華殿を納めるおつもりなのでは』と話しているのを小耳に挟みました。杏花殿には、妃にならないと入れませんからね」
「李元さん……鋭いなあ」凜華は思わず感心してしまった。さすが皇帝の側近を務めるだけのことはある。
「陛下は何も仰いませんよ」絃楠は悪戯っぽく笑った。
「凜華さまのことになると、やたらそわそわされますが」
「そわそわはしているんだ」
あの景雲が……と想像するとちょっとおかしい。
「もしかして、この件を探るために来たの?」
「違いますよ。詐病ではありません」
「それはわかるよ。身体は嘘をつけないもん」
吹きこぼれそうになった土鍋を、慌てて火から下ろす。
「あくまでも個人的な興味です。陛下には何も言いませんのでご安心を」
「そう」
凜華はそこで、憂鬱そうにため息を吐いた。
「……実を言えば困ってる」
「なぜ? 皇帝の妃ですよ。大層名誉なことのような気がしますが」
「ここではそうかもね」どこか投げやりに言いながら、凜華は鍋に水を足した。
「でも、私はお妃になって権力を握りたいわけじゃない。ここで薬を作っていたいだけ。薬師として、陛下とも太医ともお妃たちともうまくやっていきたい」
これは間違いなく本音であった。
凜華は葛根湯をこぼさないよう慎重に椀に入れると、絃楠に差し出した。
「……虫が良すぎるかな」
権力者の掌中にありながら、政治から遠いところで研究に没頭していたいという悩み。
絃楠なら「陛下の御心に添うべきです」といった優等生的な助言をするかと思いきや……。
彼は椀を受け取ると、意外なことを言った。
「でしたら、よくお考えになった方がよろしいですよ。妃になったからといって幸せになれるとは限りません。侍妾だからといって不幸になるとも限りません」
男にして女、宮廷の光と影を知る者の言葉には静かな迫力があった。
凜華は恐る恐る尋ねた。
「あなたは? 先帝陛下との生活は幸せだったの?」
絃楠は手元の茶褐色の液体に視線を落とし、長い睫毛を震わせた。
「それは難しい質問ですね。『女として』でしたら、私ほど幸運で幸福な人間はいないでしょう。罪人でありながら帝の寵をいただき、外廷では常に傍に置かれたのですから」
端正な横顔は、深い水底をさらったような憂いに満ちている。お世辞にも幸福な生活を送っていたようには見えなかった。
「いつも一緒だったんだ」
「ええ。外廷で過ごされる夜は、常に御寝に侍っておりましたし。もっとも私は、当時から間諜の役目をこなしていたのですが。外では随分とやっかまれましたね。奴隷以下の分際で、女の成りをしてまで皇帝陛下をたぶらかす魔性であると」
女装も侍妾となったことも、何一つとして絃楠の意志ではなかった。なのに、官吏も女たちもことあるごとに彼が悪いと言った。絃楠を偏愛する皇帝を、表立って非難することはできなかった。
「先帝陛下は……本当に残酷で恐ろしい方でした」
その声には、微かな震えが混じっていた。
「寵臣でもお身内であっても、逆らう者は容赦なく……疑わしきであっても一族郎党まで皆殺し。宮廷は恐怖に支配されていました。ですが……」
絃楠の翠緑の瞳に、どこか陶酔じみたものが浮かぶ。
「同時に、帝王の中の帝王でもあられました。絶対的な力を持つ君主、英傑です。先帝陛下の長い治世において、この国が外敵に脅かされたり、内乱で揺らいだりしたことは一度もなかった。夫君としてはともかく、主としては尊敬しております」
心身を苛む激しい抑圧、恐怖と敬愛が入り混じった複雑な心境の吐露。
現代の平和な倫理観で生きていた凜華には到底理解の及ばない、絶対権力者とそれに添わねば生きられない者の狂おしくも濃密な関係性。
圧倒されたかのような凜華に、絃楠は優しく言った。
「すみません、少し話しすぎましたね。体調を崩すと弱気になっていけません」
思いきったように椀に口をつけると、中身を一気に飲み干した。
「ありがとうございます。よく効きそうです」
「ならよかった」凜華はかろうじて口元に笑みを作った。
椀を置くと、絃楠は立ち上がった。
湿度の高い部屋にいたせいか、入ってきた時よりも顔の血色は良くなっている。
「凜華さま。あなたさまは私とは違う。ご自身の幸せを信じて進まれるべきです」
戸口へ向かった絃楠は、扉の前で立ち止まると振り返った。
「あなたさまは私を男と仰いますが、男としての私はとうの昔に息絶えました。他ならぬ先帝陛下に弑されたのです」
何かを悔やむように悲しげに呟く。
「なぜ、こんな屍をお生かしになったのか……」
絃楠は扉を開けると、するりと抜けて出て行った。戸が閉められ、部屋には葛根湯の残り香が漂う。
絃楠が背負う過去と、残した言葉の余韻。
文伯の死で空っぽになっていた凜華の心に、また重く不可解な石が投げ込まれたようであった。
少しすると、寿寿が辺りを伺いながら入って来た。
「絃楠さん、帰られてしまったんですね」
寿寿はいったん自室に戻ったが、隣りの様子が気になっていた。絃楠を見送りできなかったのが残念だった。
凜華は、手元の空になった椀を見つめた。
「……さてと。もう一杯、葛根湯を煎じようかな。私もなんだか悪寒がするような。寿寿も飲む?」
「いいんですか?」
「いいよ。身体があったまるし、肩こりにも効くし。これを作っているとなんだかホッとするしね」
「ではいただきます。凜華さんにホッとして欲しい」
「うん、美味しくはないけどね。飲んで飲んで」
寿寿の優しい笑顔に癒される。
凜華は再び薬研を手に取ると、追加の葛の根を砕き始めるのだった。




