第71話 初心に帰って葛根湯を作ろう<中>
絃楠の脈を取りながら、凜華は尋ねた。
「首筋から背中にかけて嫌な悪寒が走る? 汗は出ている?」
「いいえ、汗はまったく。悪寒はあります。背中がゾクゾクして。身体の節々も痛いです」
「少し熱もあるかな。風邪の初期症状ね」
凜華は絃楠の喉を覗き込んだ後、おもむろに立ち上がった。
「いいタイミングで来たわ。ちょうどこれを作ろうと思っていたの」
薬研ですり潰したものに、括りつけの棚から取り出した生薬を加える。
「『葛根湯』を煎じるわ」
「葛根湯……葛湯ですか」
「私の故郷では一番有名な風邪薬かも。薬のイロハのイにして至高の完成度を誇る傑作。これを知らない薬師は、モグリどころじゃないわね」
土鍋に水と生薬を放り込みながら、凜華は流れるような口調で解説を始めた。
「主役は葛の根っこ、葛根。次に麻黄。これにはエフェドリンっていう交感神経を刺激する成分が入っていて、桂皮と一緒に身体を芯から温めて発汗させる。それから……」
麻黄と桂皮で体を温めて発汗を促しつつ、葛根で首や肩の強張りを解し、芍薬と甘草で痛みを和らげ、生姜と大棗で胃腸を整える葛根湯。一切の隙がない完璧な布陣でウイルスを迎え撃つ茶褐色の液体は、まさに漢方界の生ける化石にして頂点である。
「これはすごいのよ。本当にすごいものなの。たった七つの草の根や木の皮を組み合わせただけで、人体という複雑極まりないシステムをコントロールする。薬って、本当に美しいと思わない?」
熱く語る凜華の姿に、絃楠は咳き込みながらもどこか愉快そうに目を細めた。
「ええ、本当に。凜華さまの薬のお話は命の輝きに満ちていますね」
「葛根湯はずっと私の憧れなの。子供の頃、これに感動して。こういう美しい薬が作りたくて」
「夢を叶えられた?」
「まあ、そうだね」
「凜華さまは、以前は大きな薬屋に勤められていたとか」
大方、噂好きな下女たちから聞き出したのだろう。絃楠は凜華の過去(前世)についても知っているようだった。
「薬屋でもこうして診察しておられたのですか」
ううん、と凜華は首を振った。
「私は薬を作る専門の部署にいたの。治験は常にやっていたから、患者と接する機会もあった。でも臨床をしていたわけじゃない」
薬の材料や作り方や病気の症例なら、論文や画像や動画などのデータで山ほど知っている。知識だけなら唸るほどあって、凜華自身の揺るぎない自信に繋がっていた。
「患者を診るようになったのはこっちに来てから。実際やってみると、うん……」
凜華は大匙で鍋の中をぐるぐるとかき混ぜた。薬が好きだ。好きだから作っている。自分が作った薬が患者に効けばそれでいいと思っていた。
「そう、うまくはいかないものだね」
しんみりと言うと、少し間をおいて絃楠が口を開いた。
「文伯翁のことは残念でした」
「うん……」
土鍋からぶわっと湯気が上り、桂皮の甘い香りと麻黄の独特な匂いが部屋に立ち込める。
絃楠は鍋を見つめながら、声のトーンを落として尋ねた。
「……凜華さま。あなたさまは初めてお会いした時、私を一目で男だと見抜かれた。今は男と女、どちらで診てらっしゃいますか?」
唐突ながらも、真摯な問いかけだった。
絃楠は、肉体的にはまごうことなき男性である。しかし罪人となって去勢され、その美貌ゆえに先帝の侍妾の扱いとなった。
凜華は絃楠の顔を見た。
「男よ」
一秒の躊躇すらない即答だった。
凜華は土鍋の火加減を調整しながら、さも当然といった風に続けた。
「私が人を見る基準はただ一つ。『その人にはどんな薬が使えるか』それだけよ」
凜華は絃楠の方に向き直った。
「体格とか既往症とかも考慮するけど、まず男性か女性か。十五歳以下かそれ以上か、女性なら妊娠しているかしていないか、授乳の有無も見る。これによって使える薬、効き方や代謝の速度が違ってくるから。特に肝臓の酵素の働きや、脂肪と筋肉の比率は明確に性差が出る。だから当人の性自認がどうであれ、生まれた時の性別でしか見ない。例え身体の一部が欠損していたとしても、あなたは男性よ」
「男、ですか……」
「安心して。この葛根湯も、成人男性の規定量で煮出している。バッチリ効くよ」
徹頭徹尾「医学的」な回答に、絃楠は虚を突かれたようにポカンとした。やがてクスクスと忍び笑いを漏らした。
「徹底していますね。私は、先帝陛下のご命令で人生の大半を『女』として生きてきました。今もそうです。寡婦ですから。……時々、自分でもよくわからなくなるのです。私は女なのか、男なのか。あるいは、そのどちらでもないのかと」
絃楠の微笑みには自嘲と、長い年月をかけて育んできた深い諦念が混じっていた。
無理もないと凜華は思った。去勢された男自体が特異な立場なのに、絃楠はさらに輪がかかっている。
「薬師はみんな同じことを考えると思うよ。宦官に出す薬の量を、女性のものにするのもおかしいしね」
「そうですね。私はあくまで宦者。女の扱いではあっても女ではない。侍妾の待遇でしたが、妃ではありませんし。……そういえば」
絃楠は、ふと思い出したように顔を上げた。
「凜華さまは、陛下から妃に求められているとか?」




