第70話 初心に帰って葛根湯を作ろう<上>
さて、風邪の引き始めといえばあの薬。
現代日本の老若男女はまず間違いなく「葛根湯」の名を挙げるであろうが、これは後漢の医聖・張仲景が著したとされる「傷寒論」にある、およそ千八百年前に完成した傑作である。
後宮の陰惨な毒殺劇によってすっかり気が滅入ってしまった薬師からすれば、この「絶対に裏切らない基本の薬」を煮出す作業は、心の平穏を取り戻すまたとないセラピーなのだった。
「青酸だよ? ねえ、青酸だよ? 致死量のアミグダリンを口にして助かる人間なんて、世界中探したっていないよ」
長楽殿の執務室にて、凜華の悲痛な叫びが響き渡った。
普段の彼女ならば絶対に崩れない、ふてぶてしいまでの余裕は完全に消え失せ、その声にはやり場のない怒りが滲んでいる。
「こんなこと起きないんだよ。現代だって起きない。偶然、本当にたまたま硝石を飲んでいたなんて。メトヘモグロビン血症を起こしていたおかげで、奇跡的に死を免れたのに。折角命が助かったのに、どうして自分で首を括っちゃうの……」
喚く凜華を、景雲は沈痛な面持ちで眺めていた。
彼も文伯が自ら命を絶ったという報せを受けた時は、目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。
凜華の尽力によって無実となり、これからは平穏な余生を送って欲しいと思っていた矢先の出来事だった。
「……たった一人の家族を失ったのだ」
景雲は絞り出すように言った。
「あの兄弟にとって、互いの存在は血の繋がり以上に大事なものだったのだろう。無実が証明されたとしても、永叔は戻らない。それが、文伯から生きる気力を根こそぎ奪いとったのだ」
「そんなのあんまりだよ。だったら私がしたことって何? なんの意味もなかったじゃない」
「お前のせいではない」
景雲は項垂れる凜華の肩にそっと手を置いた。こんな形でしか触れられないことがもどかしい。
「お前は薬師としての職務を果たした。文伯を死に追いやったのは永叔の死。つまり弟を殺した『真犯人』のせいだ」
景雲の瞳に、冷たく決然とした火が灯る。
「私の恩人を二人ともに殺めた。なんとしても下手人を捕らえなくてはならん」
「うん……そうだね」
皇帝の決意を聞いても、凜華の心は晴れなかった。
救命は無駄だったのかと思うと暗澹たる気分になる。身体の解毒はできても、死に向かう人の心を止めることはできない。ひたすら虚しく、無力感ばかりが募る。
「帰ります」
凜華は、ふらふらとした足取りで長楽殿を後にした。
あまりの落胆ぶりに、景雲は引き止めることができなかった。
自室に戻ると、寿寿が心配そうな顔で出迎えた。
「凜華さん、お帰りなさい。顔色が悪いわ。お疲れみたいですね」
「うん、ちょっとね」
凜華は無理して笑ってみせた。
寿寿は宦官が毒殺された事件を知らない。そのうち噂にはなるだろうが、剽娘の件同様に刑部は詳細を伏せるはずだ。文伯と永叔に近しい者たちにも、箝口令が敷かれるだろう。
「温かいお茶を淹れますね」
「ありがとう」
今は寿寿の気遣いがありがたい。……一人になりたい。いや、誰かに傍にいて欲しい。何も話さなくていいから、人の気配とほのかな体温を感じていたい。
「お茶を飲んだら、少し横になった方がいいですよ」
「うーん、今は寝てる方が辛いかも。何かゴリゴリすり潰してないと、頭がおかしくなりそう」
凜華は麦茶を飲むと、薬研の前に座った。
乾かした薬草を放り込むと、黙々と粉砕作業に没頭する。
今は何も考えたくない。だから何も考えない。無心のまま薬を作り続けて、疲れ果てて、そのまま寝台に倒れ込んで泥のように眠りたい。
乾燥させた根や樹皮が砕ける小気味よい音と、鼻腔を抜ける土の匂いが、凜華のささくれ立った神経を少しずつ鎮めていく。
凜華は午後いっぱいを、寿寿と共に薬を作って過ごした。
陽が緩やかに傾き、夜の涼やかな気配が漂い始めた頃、来客があった。
「凜華さま。少しよろしいでしょうか」
静かに戸が開き、姿を現したのは絃楠だった。
彼はいつものように深く布を被り、下女の服の上に厚手の上衣を羽織っていた。
透き通るような白い顔は、うっすらと朱が差している。浅い呼吸とともに、小さな咳を漏らした。
「絃楠さん? どうしたの」
凜華が手を止めると招き入れると、絃楠はふふと力なく笑った。
「実は先日から体調が優れず。咳まで出るようになってしまいまして。そうしたら陛下が『凜華のところへ行って診てもらえ』と」
凜華は意外そうに目を見張った。
「へえ……陛下も優しいところがあるじゃない」
凜華が「診察するわ。そこに座って」と椅子を勧めると、絃楠はチラリと寿寿に視線をやった。
寿寿は先ほどから、絃楠をうっとりとした目で見ていた。
「凜華さま。申し訳ありませんが、その……人払いを」絃楠は恥ずかしそうに言い、目を伏せた。
凜華は寿寿に、しばらく席を外すよう言った。
寿寿はハッとして、顔を赤らめた。
「す、すみません。気が利かなくて……」
寿寿は凜華が下女たちの診察をする際、いつも助手として同席している。当然、絃楠の診察もそうなるだろうと思っていたのだが……。
謎多き麗人、絃楠がきれいすぎて、つい見惚れてしまった。絃楠は不躾な視線を嫌がったに違いない。失礼なことをしてしまったと反省しきりだった。
寿寿が出て行くと、凜華は薬師としての顔つきに変わった。患者が来たなら、いつまでも落ち込んではいられない。




