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ワーホリ後宮薬師は変人皇帝に溺愛されたくない   作者: kiyoaki


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第69話 杏は美しい顔をした「毒の王」だよ<七>

 凜華の解毒と科学的知見にもとづいた証言により、文伯は無罪放免となり、暗く湿った牢獄から釈放された。

 刑部の役人たちから形ばかりの謝罪を受け、彼が重い足取りで下級宦官の住居房へと戻ってきたのは、陽がすっかり落ち後宮が夜の帳に包まれた頃であった。


 長年暮らす住居房は、しんと静まり返っていた。

 永叔の部屋とは隣り同士で、毎日のように行き来があった。ここは二人で肩を寄せ合って暮らしてきた家だった。

 自室には、数日前に二人で囲んだ卓がそのまま残されており、床には永叔がもがき苦しんだ際についた爪痕が生々しく刻まれていた。

「……永叔」

 文伯は、崩れ落ちるように床へ座り込んだ。命は助かった。無実も証明された。しかし、彼の半身同然だった弟はもうこの世のどこにもいない。

 自分を庇って死んだわけでもない。何者かの理不尽な悪意に巻き込まれ、冷たい土の下へ送られてしまった。

 なぜ、自分だけが生き残ってしまったのか。火薬の原料という奇妙なものを飲んでいた己の因業が、結果として永叔を冥府へ追いやってしまったのではないか。底なしの喪失感と罪悪感が、文伯の心を苛んでいく。

 打ちひしがれ、涙も枯れたまま、文伯が暗闇の中でうずくまっていた。


 ――ふわり、と。

 どこからともなく、微かな風に乗って「その匂い」は漂ってきた。甘くどこか退廃的で、鼻腔の奥をツンと突くような芳醇な香り。それは、杏の蜜煮の香りであり、永叔の命を奪ったアーモンド臭でもあった。

「ひっ……!」

 文伯は弾かれたように顔を上げ、部屋の四隅をきょろきょろと見回した。何もない。誰もいない。

 香りだけがそこにある。いや、それは現実の匂いではなく、彼の極限状態の脳が作り出した幻臭だったのかもしれない。

「杏……杏の花……。杏の匂い……。ああ、杏の種で、俺たちは殺される……」

 文伯はガタガタと全身を震わせ、頭を両手で抱え込んだ。

 彼の脳裏に、十数年前のあの日の記憶が、鮮血を伴ってフラッシュバックする。

 命令に従って、他の宦官たちと共に踏み込んだ杏花殿。

 そこで彼らは何を見たのか、何をしたのか。

 悲鳴、怒号、そして――散り乱れる杏の花弁。


「これは……皇后さまの……? いや、無念の死を遂げたお妃さま方の呪いだ」

 文伯の口から、ひゅうっと空気が漏れるような掠れた声が出た。

 杏と杏に含まれる毒。単なる偶然ではない。過去の罪を忘却の彼方に追いやり、のうのうと余生を貪ろうとしている下僕たちに対する、冷酷な「処刑の宣告」ではないのか。


「弟は死んだ……。あいつは、俺の身代わりになって連れて行かれたんだ。そして今度は……残った俺を罰しにきたんだ……」

 甘い香りが、徐々に濃くなっていく。

 部屋の隅の暗がりから、美しく着飾った女たちが、冷たい目で彼をじっと見ている。女たちの顔は、みな不気味な薔薇色に染まっている。


「許してくれ。どうか許してくれ……! あれは、仕方のないことだったんだ。ああしなければ、俺たちが呪われていた。殿下を、陛下をお守りするためには……」

 誰もいない方に向かって、文伯は床に額を擦りつけ、狂ったように許しを乞い続けた。

 幻影たちは何も答えない。ただ甘く危険な香りで彼の肺を満たし、その精神をじわじわと圧殺していくのみ。

 もはや文伯にとって、生きて明日を迎えることは死以上の恐怖と化した。


 翌朝。後宮の朝は、無慈悲なほど白々しく明けた。

 釈放された文伯の様子を見ようと、同僚の宦官が粥の入った椀を持って彼の住居房の戸を叩いた。

「文伯の爺さん、起きてるかい? 温かい粥を持ってきたよ。しばらくはお勤めをお休みしていいそうだ。養生して永叔を十分弔ったら……爺さん?」

 しばらく待ってみたが返事がない。戸は内側から(かんぬき)が外されており、少し開いていた。

 宦官は不審に思い、軋む戸を押し開けて部屋の中を覗き込んだ。


「……ひっ、ああああああっ!」

 持っていた粥の椀が床に落ち、派手な音を立てて砕け散った。甲高い悲鳴が、朝の冷たい空気を引き裂いて後宮の空へ響く。

 部屋の中央。

 太い(はり)からは荒縄がぶら下がり、大柄な老宦官の体が振り子のように力なく揺れていた。

 その顔は苦悶に歪み、舌を突き出していた。足元には、蹴り倒された踏み台が転がっていた。


 かくして、杏の蜜煮から始まった毒殺事件は、医学の勝利という華々しい結末を嘲笑うかのような後味の悪い結末を迎えた。

 文伯の周囲に、杏の匂いは欠片も漂っていなかった。あるのはただ、生気を失った老人の肉から発せられる埃と絶望の入り交じった乾いた臭いだけだった。



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