第68話 杏は美しい顔をした「毒の王」だよ<六>
「というわけで、文伯さんは無実です。無理心中でも、永叔さんのお金を狙った殺人でもありません」
長楽殿の執務室において、凜華は堂々たる態度で言い放った。
執務机に腰を下ろした景雲は、安堵の息を吐き出した。
これで己の命を救ってくれた老宦官が、無実の罪で首を刎ねられる事態は避けられそうだ。
「大儀であった、凜華。……して、からくりはどうなっていた? 何者かが永叔を殺し、文伯に罪をなすりつけようとしたということか」
「なすりつけるというよりは、最初から『二人とも殺す気』だったんじゃないかな。文伯さんが奇跡的な確率で生き残ってしまったから、犯人に疑われるという妙な密室劇になってしまったみたい」
凜華は解説を始めた。皇帝の御前で披露されるべき恭しさとは無縁の、どこぞの大学の研究室で後輩に講義をするかのような口調だった。
「按ずるに……犯人はあの二人が『毎月、親の月命日に杏の蜜煮を食べる』という習慣を知っていて毒を盛った。これは後宮のことがよくわかっている人物じゃないとできない気がする。杏の蜜煮売りがそうだったのか、経路の途中で盛ったのかはわからないけど」
「後宮に精通し、出入りができる人物か……」
「恐ろしいのは、『杏に杏の毒を盛る』という発想よ。ベースが杏の蜜煮だと、苦杏仁は杏そのものの匂いと完全に同化してしまう。食べている本人たちは、ちょっと風味が強いと思う程度で、自分が猛毒を咀嚼していることには絶対に気づかない」
景雲も、悪魔的な発想に背筋が寒くなるのを感じた。
「それならば、なぜ文伯は助かったのだ?」
「そこ。そこよ。『事実は小説より奇なり』とはよく言ったものだわ」
凜華はパチンと指を鳴らした。
「文伯さんは、蜜煮を食べる直前に持病の薬である硝石を飲んでいた。去勢手術の後遺症で、長年排尿痛や結石に悩まされていた彼は、利尿剤や結石を溶かす薬として使われる『消石』の粉をこっそり服用していたの」
「硝石だと? そんなものを飲んで無事で済むのか?」
「無事じゃないから、毒消しになったんだってば」
凜華は、現代の救急医療における亜硝酸アミル解毒法のメカニズムを、身振り手振りを交えて説明した。
「青酸は、獲物を逃さない稲妻のような毒よ。本来なら、お茶を飲み干す間に命の火は消える。……でも、文伯さんの血の中には、硝石が作り上げた『身代わりの盾』が隙間なく並んでいた。もちろん、これは時間稼ぎにすぎないわ。完全に無毒化できるわけではないので、彼自身も顔を真っ黒にして倒れたし、中毒症状で苦しんでいた。私が石灰と硫黄を煮出した即席のチオ硫酸塩を与えて、最終的な解毒を行ったというわけ」
景雲は、呆れたように深いため息をついた。
病気の痛みを和らげるために火薬の原料を飲み、それが結果として暗殺者の猛毒を一時的に防いだ。天の配剤と呼ぶにはあまりにも泥臭く、そして哀しい奇跡であった。
「……よくわかった。文伯の無実は完全に証明されたわけだな」
「ええ。バッチリよ。だけど……」
そこで凜華の表情は真面目なものに変わった。
彼女は、目の前の皇帝の顔をじっと見つめた。
「杞憂かもしれないけど。何か『出来すぎ』な気がするのよね」
「……というと?」
「犯人の見立て。わざわざ『杏の蜜煮』に『杏の種』を盛るなんて。匂いを誤魔化すだけなら、ニンニクとか香辛料の効いた料理に毒を混ぜてもよかったはずなのに。なんだか杏にこだわっているみたい」
そう言った瞬間、景雲の顔が強張った。
美しい顔に、何か言い知れない透明の硬い仮面が張り付く。彼は厳しい顔をし、重い口調で言った。
「なんであろうな。これも調べるほかあるまい」
「陛下に心当たりはない?」
「……」
景雲は沈黙した。ないわけではないが、あるとも断言できないというような複雑な面持ちである。
その深い沈黙こそが、凜華の推測が「後宮の触れてはならない暗部」に触れたことを物語るようだった。
凜華は肩を竦めてみせた。
「……まあいいわ。私の仕事は、文伯さんの無実を証明することと解毒すること。これは無事に完了。後は陛下に任せます」
「ああ。後でまた呼ぶ」
「はーい」
「それと褒美だ。ここで私を待つ間は、好きな薬を作ってもよい。材料費は私が持つ」
「本当に? やった! さすが陛下。話がわかる!」
凜華はパッと顔を輝かせ、もろ手を上げて喜んだ。
「化粧品や高価なものはだめだからな。薬師房の薬も使い込むな。また太医が押しかけてくる」景雲は念のため釘を刺した。
「うん。使いすぎないよう気をつける。じゃあまた」
凜華はさっと身を翻した。長楽殿に待機しつつ、早速薬を調合するつもりでいる。
道具はあるし、李元たちが材料を持ってきてくれる。匂いがきついものを調合する場合は、裏庭に出て石舞台で火を焚けばいいだろう。
「何を作ろうかな~」
鼻歌交じりに部屋を出て行く。
凜華を見送った後も、景雲はしばらく微動だにせず、虚空を睨みつけていた。
それから、李元に刑部の役人たちを呼ぶよう命じた。




