第66話 杏は美しい顔をした「毒の王」だよ<四>
ほどなくして集められた材料を使い、凜華は病舎の土間で即席の調薬を始めた。
土鍋に硫黄の黄色い粉末と石灰を投入する。そこへ水を注ぎ、火にかける。硫黄は、それ自体はほぼ無臭だが、水(水素)と混ざると硫化水素になる。
「うわっ、なんて匂いだ」
立ち昇る凄まじい腐卵臭に、役人たちは鼻を押さえ、顔をしかめて後ずさった。凜華は布で鼻と口を覆い、土鍋から目を離さない。
「硫黄は火の粉、石灰は地の骨。これを煮詰めて『毒喰らい』の元祖を作るわ」
ぐらぐらと煮え立つにつれ、透明だった水はどろりとした深紅へと変色していく。
凜華は、色の変化を真剣な面持ちで見つめた。
これは現代の農家なら誰もが知っている、果樹の殺菌殺虫剤「石灰硫黄合剤」の粗製である。
この赤褐色の不気味な液体の中には、解毒の要となる「チオ硫酸カルシウム」がたっぷりと溶け込んでいる。
次に、凜華は団扇を手に取った。
「空気を送り込んで酸化を早める」
鍋に向かって必死に団扇で扇ぐ。
熱せられた多硫化カルシウムが酸素と触れ合い、化学変化を起こす。液中でチオ硫酸塩が生成される。
これが体内に入ると血中のシアンを捕らえ、チオシアン酸という名のほぼ無害なものへと作り変える。
そうなれば毒は命を脅かす刃ではなく、ただ尿とともに流れ出る滓にすぎなくなる。
「よし。上澄み液だけを掬って、少し水で薄めて……」
「薬師殿!」
背後から役人の焦る声がした。文伯の呼吸がついに止まりかけた。喉がひゅうひゅうと鳴り、全身が弓なりに反り返る。
「……時間がないわ。濾過!」
凜華は、粗い布で熱い薬液を漉した。
湯気の立つその琥珀色の液体を、器ごと水に浸して冷ます。
なんとか冷ました強烈な臭いを放つ薬液を椀に注いだ。
「飲んで。あなたには生きてもらわなきゃ」
役人に身体を押さえさせ、もがき苦しむ文伯の顎を掴んでこじ開ける。咥内に薬液を流し込んだ。
「ごふっ、おぇぇぇぇっ!」
あまりの不味さと臭いに文伯は激しくむせ返り、胃の中のものを吐き出した。が、凜華は構わず残った薬液を全部飲ませ、背中をさすり続けた。
数分後、魔法のような変化が訪れた。
文伯の喉から、がっと塊のような呼気が漏れる。
「あ、は……。はぁ、はぁっ……」
「顔色が変わったわ」
凜華の声が高揚する。先ほどまでの死人のような土色が、潮が引くように消えていく。
代わりに現れたのは、毒に侵された薔薇色でも酸欠の黒でもない。弱々しくも確かな「生」を感じさせる老人の青白い肌だった。
文伯の荒々しかった呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻してゆく。
凜華は額の汗を拭い、静かに立ち上がった。
「シアンを硫黄で縛り上げた。……あとは彼の生命力次第ね」
科学の火が灯された牢獄で、凜華の声は重く響き渡った。
翌日、文伯は寝台の上で意識を戻した。
目を開けた文伯に、凜華はホッと胸を撫で下ろした。
「気分はどう? 話せる?」と椅子に腰かけながら話しかけると、文伯は凜華をぼんやりと見上げた。
彼も凜華のことは知っていた。
太医ではない皇帝の薬師。先日は皇族の姫の命も救い、多額の褒美を下賜されたという。
今や皇帝は彼女に首ったけらしい。宦官の出世は、後宮で仕える妃や寵姫に大きく左右される。日々、皇帝と凜華の間を取り持つ李元やその一派を羨ましく思っていた。
「皇帝陛下の薬師殿……か。もしかして、俺は……助かったのか?」
「ええ。もう大丈夫」
「そうか……」
「でも、ここからが本番。あなたは一体どうやってあのとんでもない猛毒から生き延びたの?」
凜華は文伯に、回収してきた「杏の蜜煮」の残骸を見せた。
「調べさせてもらったわ。この蜜煮には、殺人的な量の苦杏仁の粉末がたっぷりと入っていた。永叔さんはこれを食べて死んだのよ。あなたも同じものを食べたはずなのに、なぜ死なずにすんだの」
凜華の追及に、文伯は皺だらけの顔を歪ませ、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……あんたまで、俺があいつを殺したと疑うのか? 冗談じゃない。俺たちは同じ村で生まれ、一緒に大事なものを切り落としてここへ来たんだ。永叔は、俺のたった一人の家族だった」
「わかってる。だから陛下も、あなたの無実を信じて私を寄越したの」
「陛下が?」文伯は泣きながらも目をカッと見開いた。
「うん、だから本当のことを教えて。蜜煮を食べる直前、あなたは何か飲んだそうじゃない。これは解毒剤だったの?」
文伯は勢いよく首を横に振った。
「違う、解毒剤なんか飲んでない。蜜煮に毒が入っているなんて知らなかった」
「だったら何?」
「それは……」
文伯は言いにくそうに口ごもった。彼の中に、何か葛藤があるようだった。
凜華は声を顰めた。
「言いにくいならこっそり教えて」
文伯は迷ったが、黙っていても立場が悪くなるだけである。観念したのか、蚊が鳴くような声で言った。
「俺の、下半身の痛みを和らげるための薬だ。俺は淋症を患っているんだ」
「淋症……」
淋症は、現代の尿路結石や尿路感染症に近い症状の病である。
「俺たちな、子供の頃に一物を切り落とされたせいで、年をとると尿の通り道が狭くなったり、石が溜まったりする。小便のたびに血が出るほど痛むんだよ。……その石を溶かし、尿の出を良くするための薬を飲んでたんだ。女にこの苦しみは……到底わからないだろう」
「薬はまだ残っている?」
「ほんの少しだが、部屋にあると思う」
「ちょっと待ってね」
凜華は背後を振り返り、出入り口付近に待機している役人を手招きした。役人が寄ってくると言った。
「文伯さんの薬を持ってきて。調べるから」
しばらくして、役人は文伯の部屋から押収した薬らしき包みを持ってきた。




