第65話 杏は美しい顔をした「毒の王」だよ<三>
冷気を孕んだ石造りの建物――検分所にて、凜華は台の上に横たわる永叔の亡骸を見下ろしていた。
景雲から「文伯の無実を証明せよ」という特命を受けた彼女は、すぐさま現場へと急行し、まずは被害者の検死に取り掛かったのである。
遺体を覆う白布をめくった瞬間、凜華は息を呑んだ。
永叔の死体は報告に上がっていた通り、異様な色彩を放っていた。死後硬直の始まった皮膚には、およそ死者には似つかわしくない、鮮やかで不気味な薔薇色の死斑が浮かび上がっている。
「やっぱりね。シアン中毒……青酸による致死か」
通常、人間が窒息や心不全で死ぬと血液中の酸素が失われ、どす黒い死斑が出る。
しかし、シアンやシアン化物を摂取した場合、毒が細胞内の呼吸酵素(シトクロムcオキシダーゼ)の働きを完全にストップさせてしまうため、細胞は血液中から酸素を受け取れなくなる。結果として、酸素をたっぷりと含んだ赤い動脈血がそのまま静脈へと流れ込む。死体はまるで生きているかのような、あるいは薄化粧を施したかのような美しい薔薇色に染まるのだ。
凜華が遺体の口元に顔を近づけると、微かにアーモンド臭「ベンズアルデヒド」の香りが漂ってきた。
ベンズアルデヒドは苦杏仁に含まれるアミグダリンが分解される際に、シアン化水素と同時に発生する。
「何者かが、致死量の苦杏仁を蜜煮に混ぜた。それは間違いなさそう。毒の混入経路は……いくらでもあるか」
頭を巡らせる凜華だったが、検分所に駆け込んできた刑部の役人の声が現実に引き戻した。
「宸眷の薬師殿、大至急獄舎へ。文伯の容態が急変しました」
凜華は無位無官であり、公的な地位は何も持っていない。身分は一介の下女だが、官吏たちは「皇帝陛下の信頼と寵愛の厚い私的な薬師」というニュアンスで、「宸眷の薬師殿」「薬仙殿」と呼ぶようになっていた。
「生き残った方ね。案内して!」
凜華は役人について検分所を飛び出し、文伯が収容されている懲罰房、病舎となっている牢獄へと走った。
文伯は病舎の粗末な寝台の上で、地獄の苦しみを味わっていた。顔面は土気色を超えてどす黒く変色し、激しい頭痛と目眩に襲われながら、ひゅうひゅうと喘鳴を漏らしている。
細胞が酸素を使えず身体が「窒息」している状態、すなわち現在進行形のシアン中毒であった。致死量には達しなかったものの、体内に残った毒がじわじわと彼の命を削っている。
凜華は文伯の顔を覗き込みながら言った。
「まだ間に合うわ。まずは解毒ね」
「これを助けるのですか?」
文伯の世話をしている牢番が、文伯と凜華を交互に見た。
このまま文伯が死ねば死刑にする手間が省けるのに、とでも言いたげである。
「死んでしまったら真実がわからなくなる。やるよ」
凜華の頭の中で、シアン解毒の手順が猛烈な勢いで組み立てられていく。方法は、体内のシアンを別の無害な物質に変換して尿として排出させればいい。
シアン中毒には特効薬が存在する。
ヒドロキソコバラミン、体内での持続性が高い天然型の「ビタミンB12α」である。シアンが「毒の王」ならば、ヒドロキソコバラミンは「捕獲と更生の王」とでもいうべき働きをする。なんと毒そのものを人体に不可欠な栄養素、ビタミンに変えてしまうのである。
ヒドロキソコバラミンが血中に入ると、すでに呼吸酵素と結合して細胞を殺しかけているシアンを強引に引き剥がし、自分の方へ吸い寄せる。シアンと結合したヒドロキソコバラミンは「シアノコバラミン(ビタミンB12)」へと姿を変える。毒がビタミンになることで、細胞の呼吸が再開される。
だが、凜華は一秒で思考を止めた。
「……無理。不可能だわ。ヒドロキソコバラミンは技術的に作れない」
ヒドロキソコバラミンは、現代化学の父ロバート・バーンズ・ウッドワードら百人以上の研究者が十一年の歳月をかけてようやく完成させた、「有機合成化学」と「微生物工学」の最高峰とも言える化合物である。
この世界の設備――蒸留器や炉で、複雑極まる化合物を作るのは不可能だった。ヒドロキソコバラミンを血管に注入するための注射器もない。
「だったら『チオ硫酸塩』……。イチかバチかでこれを作るしかない」
凜華は、「無機化学」における酸化還元反応のたまもの、チオ硫酸塩を使って解毒することを決意した。これならば、この世界にある材料で作ることができる。
必要なのは「硫黄」の供与体だ。これが体内の酵素の働きを助け、猛毒のシアンを比較的無害なチオシアン酸塩に変える。
凜華は役人たちに叫ぶように言った。
「そこのあんたたち、『石灰』と『硫黄』を急いで持ってきて。あと火鉢と土鍋も!」
「い、硫黄ですか?」
「黄碄、硫黄はあちこちにあるはずよ。火薬局、薬師房、染織房、掃除を担当する部署にもあると思う。一番近いところへ行けばいいわ」
硫黄は火薬の原料であり、薬の材料でもあり、絹や麻の漂白に使われ、害虫駆除や防疫にも用いられるオールラウンダーな鉱物である。宮城のいたるところで使われているはずだった。
「わ、わかりました!」
凜華の鬼気迫る指示に、役人たちは慌てて出て行った。凜華も水を汲むために、桶を持って井戸の方へと駆け出した。




