第64話 杏は美しい顔をした「毒の王」だよ<二>
「……で? 生き残った方が、弟分を毒殺したとして捕縛されたというわけか」
清心殿の執務室にて景雲は、報告に来た刑部(司法)長官の言葉に眉をひそめた。
長官は淡々と事件の顛末を説明した。
「はっ。検死の結果、亡くなった永叔の死体は、全身が『不気味な薔薇色』に染まっておりました。これは強力な毒物を呷った際に見られる特有の死斑であると、薬師たちが断定いたしました」
「強力な毒物とは?」
「『苦杏仁の毒』だそうです。二人が食べた杏の蜜煮には、この苦杏仁を砕いた粉がたっぷり入っていたようで」
杏仁は杏の種。杏や桃、梅の種に含まれる未発達の成分が毒であることは、この世界でも古くから知られていた。
「なぜ文伯は生き残ったのだ。同じものを食べたのだろう」
「文伯は蜜煮を食べる直前、『解毒剤』と思われる粉を服用したとのこと。すなわち、蜜煮に毒を盛り永叔を殺害するための計画的な犯行であると……」
「それは短絡的すぎるのではないか」
「……と申しますと」
「文伯の方に永叔を殺す動機があるまい」
「文伯は持病の薬代がかさみ、金に困っていたようです。これは複数の証言が得られました。薬師にも多額のツケがあったようで、今度払えなければ薬は渡せないと言われたとか。永叔が貯めこんでいた金を狙った線も……」
それでも景雲は否定の意味を込めて、首を軽く振った。
「……いや、どうにも腑に落ちん」
若き皇帝の脳裏に、幼き日の記憶が蘇る。
文伯と永叔のことは知っている。彼らは、かつては杏花殿付きの宦官だった。
景雲の母である銀玲妃、そして景雲自身に仕える大勢いる下僕のうちの二人だった。大柄な文伯が、永叔を庇うようにして後ろに立たせていたのをよく覚えている。
それに、これは公けにはなっていないが、運命のあの日……景雲は彼らによって助け出されたのだ。
「余は幼少時よりあの者たちを知っている。文伯が、家族同然の弟分に毒を盛るとは考えられん。何かの間違いではないのか」
「確かに、文伯本人も『絶対に違う、大事な弟に毒なんて盛るわけがない』と涙を流して無実を訴えております。ですが、すでに刑部は処刑の準備を進めておりまして……」
「執行を差し止めろ。こちらでも調べる」
「はあ……承知いたしました」
長官も腑に落ちない顔をしたが、皇帝の命令に逆らうことはなかった。
報告が終わると、景雲は長官を下がらせた。
文伯の死刑執行はいったん停止となった。とはいえ、皇帝の権力をもってしても、明確な証拠なく刑部の決定を覆すことはできない。私情を挟んで、国が定めた刑法を軽んじるわけにはいかない。もし文伯がやったわけではないのなら、彼が無実であるという根拠が必要だ。
景雲は、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「……仕方ない。あれに調べさせるか」
長楽殿に呼び出された凜華は、景雲から事件の概要を聞き終えると、腕を組んで唸った。
「なるほど。弟分は亡くなり、死体は『不気味な薔薇色』になった。そして、兄貴分は食べる直前になんらかの粉末を飲んだ。彼はなぜか一命を取り留めた、と」
「そうだ。凜華、お前にこの事件を解いて欲しい。実をいえば、この二人には恩義があってな」
「陛下の知っている人なんだね」
「子供の頃は世話になった。私情を挟むべきではないとわかってはいるのだが……」
「文伯さんが犯人ではないと思ってる?」
「ああ。文伯が本当に永叔を殺したのなら極刑でよいが、違うのなら助けてやりたい」
景雲の声には、皇帝としてではなく一人の人間としての切実な響きがあった。
そっかあ……と、凜華は景雲の依頼に納得した。
「死因は『苦杏仁の毒』なんだよね。死体が薔薇色なら十中八九、シアン中毒だと思うけど」
「しあん?」
「青酸のこと」
「青酸? 青い毒なのか?」
「青くはないよ。青酸は白い粉」
「白なのに青……?」
景雲の不可解そうな呟きに、凜華はハッとした。
「……違う。反対だわ」
彼女はそこで、自分の説明の因果が逆転していることに気がついた。
十八世紀のドイツで、青色の顔料「プルシャンブルー(紺青)」が発明された。後にこの顔料から猛毒の酸が取り出された。それがシアンである。そのため、シアンは「紺青から取れた酸=Prussic acid=青酸」と呼ばれるようになったのだ。
そして、この世界にプルシャンブルーは存在しなかったのを凜華が自力で作ってしまった。
凜華は景雲をまじまじと見つめた。
「ごめん、陛下。あなたは天才」
「いきなりなんだ」景雲は気味悪そうに顔をしかめた。
「説明がおかしかった。前にタリウムの解毒剤で、プルシャンブルーを作ったでしょ? あの青い絵の具から作られた毒だから『青酸』なの。杏や桃や梅の種に含まれる毒もシアン、青酸よ。元から自然界にあるし、人工的に作ることもできる」
「そうだったのか。絵の具が解毒剤になり、毒まで作り出すとはな。頭がこんがらがりそうだ」
「まさに魔法か錬金術よね」と凜華は少し遠い目をした。
「二人共に青酸を盛られたのなら、片方が生き残ったのは確かに変。青酸はヒ素と並ぶ『毒の王』だもの。口にすればまず助からない」
「王、なのか」
「うん、即効性の猛毒」
青酸が「毒の王」と呼ばれる理由は、その圧倒的なスピードにある。青酸そのものは「シアン化水素」というガス、もしくは沸点の低い液体である。これを扱いやすいように、カリウムと結合させて固形(塩)にしたものがシアン化カリウム、通称「青酸カリ」であり、見た目は砂糖や食塩にそっくりな白い結晶性の粉末になる。
青酸は口に入って胃酸と反応した瞬間に、シアン化水素ガスに変化し、胃粘膜から猛烈な勢いで吸収される。細胞が酸素を使うためのスイッチ(酵素)を直接破壊する。大量に摂取した場合、意識消失まで数十秒、心停止までわずか数分である。
景雲は苦いものでも噛んだような渋い顔をした。
「杏が『毒の王』とは。毒があること自体が信じられん」
「皮や果肉にはないよ。あったら大惨事だし」
「種の杏仁は薬ではないのか?」
「薬になる杏仁と毒になる杏仁があるの。甘みのある『甜杏仁(南杏)』なら無害。シアンを発生させるアミグダリンが大量に含まれているのは、野生種に近い『苦杏仁(北杏)』の方。杏の形状も味も違う」
「種で生と死が分かれるとはな……」景雲は大きく息を吐きだした。とんでもない果物だと思った。
「それも人を死なせる量となれば、種がちょっと混ざったとかいうレベルじゃない。故意に入れられたと見るべきよ」
凜華の説明に、景雲はゾッとしないでもなかった。
自分は苦杏仁を盛られても看破できる自信はない。元から甘味や菓子は好まないが、あらかじめ杏やその加工品は避けるほかない。
「苦杏仁の毒」は青酸。
「青酸を飲む=死」というのが常識であるから「生き残った文伯」が「あらかじめ準備していた犯人」と疑われてもおかしくはない。
「なぜ片方だけ生き残ったのか。これが事件を解く鍵じゃないかな」
凜華の考察に、景雲は黙って頷くしかなかった。
※日本においては、苦杏仁は「医薬品」扱いで原則として薬局や漢方薬専門店でしか扱えません。「専ら医薬品として用いられる成分本質(原材料)リスト」に登録されており、食品として販売・輸入することは法律(医薬品医療機器等法)で制限されています。
※過去に「杏の種に含まれるアミグダリン(通称レトリール)が癌に効く」という根拠のない説が広まったことがありますが、厚生労働省や農林水産省は「アミグダリンに癌治療の効果はない」と明言し、摂取しないよう強く警告を発しています。




