第63話 杏は美しい顔をした「毒の王」だよ<一>
さて、春の訪れを告げる可憐な杏の花は古来より詩人たちに愛され、その果実は甘酸っぱい蜜煮となって人々の舌を楽しませてきた。が、その杏の種の中身が暗殺の小道具として使えることはあまり知られていない。
美味なる果肉に隠された硬い種、その内側に潜む「仁」には、人を容易くあの世へ送る猛毒が隠されているのだから、自然の造形というものはつくづく悪意とユーモアに満ちている。
後宮に棲息する去勢された男たち――宦官という存在は、常に奇妙な連帯感と孤独を抱えて生きている。
皇帝の所有物である女たちに手出しができないよう、男としての機能を物理的に切り落とされた彼らは、一族の繁栄という未来を絶たれる代わりに独自の擬似家族を形成することが多かった。
文伯と永叔という二人の老宦官もまた、そうした宿命を背負った家族であった。
二人は同じ貧しい農村の出身で、口減らしのために幼くして宦官になることを決意し、宮城の門を叩いた。
大柄で無骨な顔立ちの文伯が兄貴分であり、小柄でどこかひ弱な永叔が弟分。二人は義兄弟の契りを交わし、血を吐くような下働きの日々を互いに庇い合って生きてきた。
特に文伯は、要領が悪く失敗の多かった永叔の盾となり、上長からの理不尽な鞭打ちを何度も代わりに受けた。
永叔はその恩を忘れることなく、五十の坂を越え互いに老境に入ってからも、文伯を実の兄以上に慕っていたのである。
宦官たちの住居房の片隅。
小さな卓の上に、永叔は大事そうに抱えた大鉢を置いた。
「兄さん、今日は兄さんのご両親の月命日だよ。これを一緒に食べよう」
中に入っているのは、彼らの大好物である「杏の蜜煮」だった。黄金色に輝く果肉が、とろりとした甘い蜜に浸かっている。菓子などめったに口に入らない下級宦官にとって、それは涙が出るほどの大御馳走であった。
「すまないな、永叔。本当は俺が用意しなくちゃいけないのに。気を使わせてしまって……」
「いいんだよ。陛下からのご下賜金もあったし。兄さんは薬代でお金がかかるんだから。火薬局や薬師にもツケがあるんだろ?」
「うん、それは……そうなんだが」文伯は言葉を濁し、気まずそうに頭を掻いた。
「それに今年は豊作だったのか安かったんだよ。いつもより少し足したくらいで倍以上の杏が買えたんだ」
永叔は毎月、決まった日に宮城の外へ杏の蜜煮を買いに出ていた。宮城周辺には、官吏を客とする物売りが大勢詰めかけており、食品から嗜好品、日用品まで大抵のものが手に入る。
杏の蜜煮売りも何人かいて、いつも永叔を見るとわらわらと寄ってくる。永叔は売人たちの中から、一番安く杏や蜜の量が多いものを購入していた。
先日は皇帝の生誕祭があり、二人にも祝いの臨時ボーナスが配られた。いつもは五、六個の杏を二人で分け合って食べているが、今回は少しばかり奮発した。大鉢には、二十個近い杏と濃い蜜がたっぷり入っていた。
「これはまた美味そうだな」
文伯は、目尻に深い皺を刻んで破顔した。
蜜煮に手を伸ばす前に、ふと思い出したように懐から小さな包みを取り出した。
「忘れるところだった。これを先に飲んでおかないと」
文伯は包みを開き、中に入っていた粉末を手のひらに乗せると、水でぐいっと流し込んだ。粉末は文伯が長年患っている持病の薬だった。彼は先日の下賜金もこの薬の支払いに充てており、すでに使い果たしていた。
薬を飲み下すと、文伯はどんと胸を叩いた。
「これで大丈夫だ。何個でも食える」
その様子を微笑ましく眺めた永叔だったが、杏の蜜煮に視線を落とすと、顔には暗い影が差した。
「……兄さん。俺も杏は好きだ。でもこれを見るたびに、どうしても思い出してしまう」
「何をだ?」
「あの日のことさ。いくらご命令だったとはいえ、俺たちは皇后さまを……」
沈痛な面持ちで語り出した永叔を、文伯は鋭い声で遮った。
「やめろ、永叔。そのことは二度と言わないと約束したはずだ」
文伯の大きな手が、卓をドンと叩く。周囲に誰もいないことを確認すると、文伯は声を潜めて弟分を諭した。
「あの時は……仕方のないことだったんだ。我々がやらなくとも誰かがやっていた。それにあのままでは、陛下のお命が危なかった。俺たちは陛下をお守りするために……そうだろ? その後のことだって……」
「わかってる。わかっているさ、兄さん」
永叔は力なく頷き、自嘲するように笑った。
「俺たちはただの手足。上に言われた通りに動くしかない道具だ。……さあ、蜜煮をいただこう。ご両親の供養だ」
二人は木匙を手に取り、杏の果肉を口に運んだ。
口いっぱいに広がる濃厚な甘さと、杏特有の爽やかな酸味。長年後宮で暮らす中、菓子を食べるのは二人のささやかな楽しみであり慰めだった。
食べながら文伯が感嘆する。
「今日のは随分味が濃くて美味いな。お前の目利きは一流だ」
「ああ、沢山買えてよかったよ。兄さんとこうして一緒に食べられるのが何より嬉しい」
二人は歓談しながら、あっという間に大鉢を空にした。
杏を平らげ、満足したその直後のことである。
「兄さ……う、あ……?」
突然、永叔が喉を掻き毟るような仕草を見せ、木匙を取り落とした。
「どうした、永叔! 喉に詰まらせたのか」
文伯が慌てて立ち上がる。
「ち、がっ……」
永叔は白目を剥き、卓をなぎ倒すようにして床に転げた。
彼の喉からはひゅうひゅうと、無理矢理空気を吸い込もうとするような異常な呼吸音が漏れる。
「永叔、しっかりしろ。……誰か、誰か来てくれぇ!」
文伯が叫び、永叔を抱き起こそうとした瞬間、彼自身の視界も真っ暗になった。
「がっ! な、なん、だ……これは」
胃袋を焼火箸で抉られるような激痛。胸を押しつぶすかのような息苦しさ。
文伯もまた、崩れるように床へ倒れ伏した。
義兄弟は、床に落ちた大鉢の傍らでしばらくもがき苦しみ、やがてピクリとも動かなくなった。




