第62話 万能解毒剤を作ろうと思ったらプロポーズされる<下>
「……はい?」
あまりにも脈絡のない展開に、凜華は間の抜けた声を発した。かまどの設置許可を求めたはずが、なぜか妃になれと言われている。どこをどうしたらそんなことになるのかわからない。彼女の思考回路は、完全にショートを起こした。
「えっと陛下? 私のプレゼン聞いてた? 私は『炭焼き専用の高温かまどを作る広い土地が欲しい』と言ったんだけど。それがどうして、あなたの妃になる流れになるの?」
凜華が尋ねると、景雲は至極当然といった顔で答えた。
「理にかなっていよう。お前が私の妃となるならば、ただちに『杏花殿』と『宸妃の称号』を与えよう。あそこは妃の住まう御殿の中でも格別に広い。妃になれば、殿内をどう使おうがお前の自由だ。杏の林を切り倒して、かまどを設置してもよい」
「杏花殿……」
景雲はさらに畳み掛ける。
「それに妃になれば、お前に仕える使用人の数は一気に増える。薬草の採取から炭焼きの火の番まで、すべて下働きに命じればよい。薬用炭とやらを作るにも、はるかに効率が良かろう」
確かに景雲の提案は凜華の要求を百パーセント、いや二百パーセント満たしている。
杏花殿は、長楽殿に最も近い御殿。景雲からすると、すぐに会えるし呼び出すのも容易い。
それ以外にも推す理由があった。杏花殿は、景雲自身が生まれ育った場所である。内部の勝手がわかっているし、隠し部屋や脱出路も把握している。
景雲の想いは今や「凜華を一番近くに置いておきたい」という熱い執着へと変わっていた。
彼女を正式な妻とし、おのがものとする。目が届きやすい杏花殿に囲い込んでしまえば安心と考えたのだ。
「待って待って待って……」
凜華の脳内では、凄まじい勢いで損益分岐の計算とリスク査定が始まった。
景雲と結婚すれば「御殿」という名の巨大な専用工房が手に入り、薬を作る際の人手も確保できる。化粧品も量産して売ることができる。薬師としては夢のような環境だ。
だが、である。
「妃になる」ということは、すなわち血で血を洗う権力闘争のド真ん中に身を投じることを意味する。文字通りの修羅の世界である。
冗談ではない。せっかく、梅妃を筆頭にしたお妃たちを顧客にし、適度な距離感を保ったまま平和なネットワークを築きかけてるのに。
凜華は天涯孤独の身である。この世界では正真正銘の一人ぼっちだ。頼れる実家や強力な味方がいるわけではない。
それなのに、皇帝と結婚して杏花殿に入ったりすればどうなるか。他の妃たちからの嫉妬と憎悪を一身に浴び「ヘイトのサンドバッグ」になるのは必定だ。
陰口を叩かれて大炎上どころではない。もっと直接的かつ物理的な攻撃に晒されることになるだろう。そんな面倒なことにはなりたくない。
凜華が作りたいのは「万能解毒剤」であって「新たな敵」ではなかった。
それに、恋愛面での葛藤もある。
個人的に景雲のことは嫌いではない。顔はいいし、頭も切れる方だ。
だが、好きか? と問われると、即座にイエスとは言い難かった。凜華にとって景雲は(彼女の精神年齢や前世の感覚からすれば)年下である。
年下の既婚者、しかも絶賛拗らせ中の権力者は彼女のストライクゾーンからは外れていた。
付き合ってもいないのに、いきなり結婚というのも受け入れがたい。この世界の場合は、凜華のような価値観の方が珍しい……を飛び越えて非常識なのだが、そういうことには考えが及ばない。
「あの、陛下」
凜華は、気まずそうに視線を泳がせながら小さな声で言った。
「その、御殿とか人手のことはありがたいんだけど。結婚は……ちょっと」
「ちょっと? ちょっととはなんだ」景雲の顔色が変わる。
「ちょっと考えさせて」
凜華の回答に、景雲の表情は凍りついた。
超絶上から目線とはいえ、皇帝からの直々のプロポーズ。
しかも名誉ある宸妃。新居は誰もが羨む杏花殿。皇后もかくやという高待遇である。
通常ならば、嬉し涙を流して足元にひれ伏し、永遠の愛と忠誠を誓う場面だ。それを、目の前の薬師は「考えさせて」と保留にするという暴挙に出た。これはほぼ断っているも同然ではないか。
景雲の自尊心は、かつてないほどの盛大な音を立ててへし折れた。
「……お前は」
景雲の声は怒りで低まった。
「なんという我儘で傲慢な女か。お前の望みを叶えてやるというのに。私の申し出を保留にするだと?」
「いや、あまりにも突然すぎて。……今答えを出すのは無理だよ」
「無理……」景雲は茫然と呟く。否定の言葉すら滅多に聞かない彼にとっては、これも激しい拒絶のように感じられた。
「そうか、わかった。ならばもうよい。炭焼きは許さん。下がれ!」
……あ、拗ねた。完全に不機嫌モードに入った。
凜華はやれやれと内心でため息をついた。
ここで変に機嫌を取ろうとすると余計に拗れそうなのが、この皇帝の面倒なところである。ここは年上(?)の余裕でいったん引こう。
「はーい。では本日は失礼します。寝る前に足湯と安眠茶を飲むのを忘れないでね」
凜華は図面をくるくると巻き、薬箱を持った。
あっさりと背を向けて扉の方へ歩き出した。
「李元さーん、開けて。陛下が帰っていいって……」
去りゆく背中を見た瞬間、景雲の内に芽生えた怒りはあっという間に別のものへと変わった。
凜華が扉に手をかけると、背後から焦燥に駆られた声が飛んできた。
「待て!」
振り返ると景雲は寝台から身を乗り出し、どこかすがるような、それでいて威厳を保とうと取り繕った何とも言えない顔でこちらを睨んでいる。
「……なんだ。お前は私を一人にするというのか。薬師の職務怠慢ではないか」
「いや、あなたが下がれって……」
「だめだ」
「も~どっちなのよ」
「ここにいろ」
景雲は拗ねた子供のように視線を逸らし、ボソリと言った。
「前言撤回する。下がるな。今夜もここにいろ」
凜華は扉から手を離した。
呆れたように息をついたが、声にはしなかった。
外にいる宦官が呼んだのか李元が小走りでやってくるのが見えたが、なんでもないと合図を送る。
つくづく面倒な人だと思う。おそらく景雲も同じことを思っているだろう。だったらお互い様だろうか。
凜華は苦笑いを浮かべながら、寝台の方へ戻るのだった。




