第61話 万能解毒剤を作ろうと思ったらプロポーズされる<上>
さて、古の時代……というか割と最近まで「結婚」とは、家と家とを結びつける政治的契約であり、個人の感情が入り込む余地は爪の先ほども存在しなかった。
現代人の感覚からすれば、相手の素性も知らず交際期間もなく、いきなり生涯の伴侶として添うなどは、内見もせずに住宅をキャッシュで買うような狂気の沙汰である。
しかし、歴史上には、相手の女がなんとも思ってないのに絶対的な権力を振りかざし、己の執着を「婚姻」という形で押し付けようとする、はた迷惑で面倒くさい男が星の数ほど存在したのである。
後宮の女たちが、寵愛という名の蜘蛛の糸を巡って愛憎劇を繰り広げ、あるいは枕を涙で濡らしている間にも、凜華の頭の中は化学的な野望で満たされていた。
「どうしても……どうしても『薬用炭』を量産できる環境が必要だわ」
薬用炭。現代の医療用語でいうと「活性炭」である。
木材や竹などを特殊な条件下で高温処理し、微細な孔を無数に持たせたこの黒い粉末は、植物性の毒に対して最強の盾となる。毒素が胃腸から血液へ吸収される前に、その多孔質構造に毒を吸着させ、便として体外へ排出してしまうのだ。
万能に近い薬用炭だが、劇的に効くのは「複雑で大きな分子構造を持つ有機毒物」であって「単純で小さな分子」や「金属」にはほぼ無力である。ヒ素や水銀などの重金属や、強酸や強アルカリといった腐食性物質には効かない。またアルコールや石油類も非常に吸着効率が悪い。
とにかく薬用炭を作りたい。しかし、作るには大きな問題があった。
「薬用炭を作るには、木材をただ燃やすんじゃダメ。空気を遮断した状態で、八百度から千度近い超高温で蒸し焼きにする『専用のかまど』が要る」
炭焼きという工程は、言い換えれば「不完全燃焼の連続」である。その過程で必然的に発生するのが、致死性の毒ガス――一酸化炭素だ。
無色無臭にして、吸い込めば瞬く間に血中のヘモグロビンを奪い取り、人を死に至らしめるサイレント・キラーである。これを防ぐためには、風通しが極めて良く、かつ広大なスペースに専用のかまどを構築しなければならない。
ひるがえって、現在の凜華の住環境はどうだろうか。
彼女に与えられているのは、手狭な下女用の住居房である。隣近所には、日々生活や仕事に追われる下女たちがひしめき合って暮らしている。
「こんな長屋みたいな場所で炭焼きなんかしたら、一酸化炭素が充満してみんな死んじゃう。文字通りの大量虐殺よ」
薬用炭で命を救うどころか、ただの犯罪者になってしまう。
凜華は無差別大量殺人犯となって逮捕され、処刑されたくはなかった。
ならば、外廷にある「尚方監」――つまり皇室専属の工房に発注してはどうか。
それも非現実的だった。立派なかまどを築き、職人を何日も拘束するには莫大な費用がかかる。
外廷を取り仕切る官吏や太医たちが「なぜ一介の薬師、侍妾が国家の工房を私物化しているのだ」と、反対する恐れもあった。それに、凜華は景雲の許しがなければ後宮からは出られない。外廷での作業だと、細かい管理ができない。
ならば、どうするか。
凜華が導き出した結論はただ一つ。
最高権力者であるスポンサーに直接プレゼンし、後宮内の空き地に専用のかまどを作る許可と予算をもぎ取る。
……これしかない。
その夜。
いつものように長楽殿に呼ばれた凜華は、ここぞとばかりに持参した木簡の図面を広げ、熱弁を振るっていた。
「……というわけで、陛下。この『薬用炭』さえあれば、後宮で頻発する食中毒や毒殺未遂の九割は無効化できます。毒見役が泡を吹いて倒れたとしても助かります。……どうです? 国家の危機管理として、実に素晴らしい投資だと思いませんか」
身振り手振りを交え、目を輝かせて「いかにかまど設置が有益な投資であるか」を力説する凜華。
その熱弁を、景雲は寝台の縁に腰掛けたまま黙って聞いていた。
彼の視線は、凜華の広げた図面ではなく、熱く語る凜華の唇や生き生きとした瞳に向けられている。
ようやく話が一区切りしたところで、景雲は待っていたように口を開いた。
「……それはそれとしてだ。私は先日、生誕日を迎えたのだが」
「おおっ、おめでとうございます。ハッピーバースデーマイエンペラァ~! で、かまどの設置場所は……」
「待て。変な呪文を唱えただけで流すな。生誕日だぞ」
「うん、そうだね。誕生日だね」
「そうだね、ではない」
「どういうこと?」
「……つまり、お前は何かないのか」
「何かって?」
「それは、その……祝辞とか贈り物とかだ」
景雲は微かに顔を赤らめた。なんでこっちが言わなくてはいけないのか。言わずとも察せよ、と言いたい。
今更だがこの女には皇帝を敬い、讃える気持ちがないのか。
「お祝いは今言ったじゃない。贈り物っていっても……。陛下は大金持ちで、欲しいものはなんでも手に入るでしょ。私からあげられるものなんてないよ」
「そうは言ってもだな……。私はこの国の皇帝、象徴、元首、生き神なのだ。一番偉いのだぞ」
「知ってるよ」
どこまでも風のように受け流す凜華に、景雲は焦れた。
「龍の化身なのだぞ」
「いきなり龍アピされても……」
「大体、お前は私に対する崇敬の念が足りなすぎる。臣下としての忠義心も見うけられない。勝手気儘に振る舞い、研究費まで使い込みおって。挙句に、生誕日までないがしろにするとはどういうつもりか」
景雲も食い下がる。先日行われた大々的な生誕祭は気乗りしなかったくせに、凜華には祝って欲しいし、チヤホヤされたいのだった。
段々説教くさい流れになってきたのに、凜華は閉口した。
「今日はやけに絡むなあ」
「絡むとはなんだ、絡むとは!」
不満そうに唇を尖らせる景雲を前にして、凜華も仕方なく頭を捻る。
「だったら凜雪膏はどう? これはお肌ケアに最高だから。今時は男性も美意識が高くなくちゃね。艶ピカお肌の、意識の高い皇帝になってよ」
「……」
「隈隠しに白粉もつけてあげるから」
「お前に聞いた私が馬鹿だった。……もういい。続けよ」
景雲は諦めて先を促した。とにかく言いたいことは先に言わせてしまおうと思った。
やがて凜華は、長々としたプレゼンを終えた。
「……以上の理由により、後宮内にかまどを設置する許可と決裁をお願いいたします。土地と資金が必要ですのでください」
と締めくくる。
完璧だ、バッチリ決まった……!
凜華はプレゼンの出来に満足していた。
景雲は、ふうと小さく息を吐いた。
少し考えるような素振りをし、それから思いきったように言い放った。
「だったら、私の妃になれ」
いきなり、シンデレラ・ストーリーのクライマックスである。




