第60話 こっちの薬は元祖の大陸式みたい<下>
但娘は躊躇なく、砕いて粉末状にした全蝎を板藍根の生汁に入れて混ぜ合わせた。現代の衛生観念からすれば恐ろしく野蛮だが、別の見方をすれば一点の無駄もない「解毒剤」でもあった。
そこには何百年にもわたって臨床を繰り返してきた、五大医家の経験則が詰まっていた。
二人が現場に戻ると、女官は白目を剥き、相変わらず四肢を痙攣させていた。激しい嘔吐で胃は空になっても、身体は苦しみ続けている。
但娘は苦悶に喘ぐ女官の口元へ、その不気味な青紫の汁を一気に流し込んだ。ゴクリと女官の喉が鳴る。
数分後、奇跡が起きた。
激しく跳ねていた女官の四肢が、嘘のように弛緩していく。荒かった呼吸は次第に整い、土気色だった肌にわずかながら赤みが戻ってきた。
「あ、う……」
女官の口から吐息が漏れた。
毒による神経の暴走を、板藍根の生汁と全蝎の持つ強力な鎮痙作用(痙攣を抑える作用)が押さえ込んだのだ。
「……信じられない。サソリなのに」
凜華は、呆然とその様子を見つめていた。
生の薬草と、毒虫の粉末。現代医学の常識ではありえない荒療治だが、結果として一人の患者を救ったのだ。
結局のところ、この騒動は毒害などではなかった。
新米の女官が菜園に生えていた水仙の葉をニラだと思って摘み、炒めて出してしまったという、あまりにも初歩的な誤食であった。
意識を戻した女官は、涙を流して凜華と但娘に礼を言った。
「あ、ありがとうございます、薬師さま。私、誰かの陰謀で殺されるのだとばかり……」
凜華が苦笑しながら言った。
「場所柄仕方ないかもだけど、ちょっと陰謀論がはびこりすぎだね。これは単なる誤食だから。水仙は葉っぱがニラにそっくりだし、球根はノビルや玉ねぎに似てるから。超がつくほどの定番事故よ」
ニラと水仙の誤食による食中毒は、現代日本でもよく起きる。中庭の菜園に生えていたというし、間違えても仕方のない部分があった。
新米女官は先輩たちにこってり絞られて落ち込んだが、凜華が
「同じ間違いをしなければ大丈夫だから」
と言って慰めると、ホッとした表情を浮かべた。
騒動が落ち着き、夕暮れの涼しい風に吹かれながら、凜華と但娘は住居房へと戻る道を歩いていた。
「……あんたってすごいのね」
凜華は、隣を歩く但娘に向かって、素直に賞賛の言葉を口にした。
「巴豆を取り扱える時点で、素人ではないと思ったけど。プルシャンブルーから板藍根の生汁を思いつくなんて。いざという時の度胸と実践力は大したものだわ」
その言葉に但娘はうっすらと頬を染めたが、すぐにツンとそっぽを向いた。
「自分だけ学があって優秀だなんて思い上がらないことね。五大医家を舐めんじゃないわよ。我が家は、昔からこの国の医療を担ってきたんだから。あんたみたいなポッと出に、出し抜かれてたまるもんですか」
「舐めてないよ。ちゃんと文字を覚えて、こっちの医学も学ぼうと思ってるんだから。今日の『毒を以て震えを制す』やり方、すごく勉強になったわ」
「ならいいけど……。いや、よくない! 我が家の秘伝は絶対に教えないから。今日は緊急事態だったから特別に見せてあげただけ。真似したら許さないからね」
顔を真っ赤にして言い訳する但娘は、五大医家のスパイというよりは、単なる負けず嫌いの同業そのものであった。
自室に戻った凜華は、疲労と安堵から深いため息をついた。
今回は、水仙だったから何とかなった。
水仙に含まれるリコリンは、摂取すると激しい嘔吐、下痢、腹痛、頭痛を引き起こし、大量に摂取すると中枢神経の麻痺や心不全を招く恐れがある。
同時に催吐性が強く、身体が「これは異物だ」と即座に判断して追い出そうとするため、致死量に達するほど吸収されることは滅多にない。
もしこれが水仙ではなく、トリカブトのような即効性の猛毒で胃洗浄が間に合わなかった場合は、薬を煎じる間もなく患者は死んでしまう。
「……もっと早く、もっと確実に」
凜華の視線が、部屋の隅にある火鉢の「炭」に吸い寄せられる。
湯液では間に合わない。粉末薬でも限界がある。
植物性の毒に速攻で効いて、胃腸を保護して、事前に作り置きができる万能の解毒剤……がないわけではない。
毒物を瞬時に吸着し、体外へ強制排出する最強の盾。
なんとかしてこっちでも作れないものだろうか、と凜華は考え込むのだった。




