第57話 声が出ない歌姫に効く喉薬とは<四>
そして迎えた、皇帝・景雲の生誕を祝う宴の当日。
長楽殿で最も広く豪奢な広間は、百花繚乱の様相を呈していた。美しく着飾った妃たちが一堂に会し、次々と皇帝の座す玉座の前へと進み出ては、祝いの辞と趣向を凝らした贈り物を捧げていく。
実家の財力とアフィリエイト活動によって後宮内で幅をきかせている梅妃は、一際自信に満ちた足取りで進み出た。
「陛下。こたびの佳日、私からは特別なお品を」
梅妃の背後から侍女が恭しく掲げたのは、水晶のように透き通った玻璃の茶器である。その中には、甘い香りを放つ龍眼肉が入っており、黄金色の金花茶が花開いていた。
「陛下は近頃、ご健康を案じられてお酒を召し上がらなくなったとか。これは『龍眼長楽金花茶』。滋養強壮に優れ、不老長寿をもたらすと言われる幻の茶にございます。どうぞお召し上がりくださいませ」
笑顔で茶を勧める梅妃。
景雲は黄金色の茶を一瞥した瞬間、これも凜華が作ったものだろうと直感した。最近の後宮は、凜華の息がかかった美容品やその他もろもろがあふれかえっているらしい。
しかし、ここで凜華の名を出すのは無粋というもの。
景雲は笑みを浮かべ、梅妃の顔を立てるべく茶器を受け取った。一口啜った。
「うむ、良い香りだ。梅妃よ、大儀である」
「勿体なきお言葉、至上の喜びに存じまする。先帝陛下と同じく、万年の長寿を祈願いたします」
梅妃は喜びに打ち震えながら、優雅に自席へと戻っていった。
宴もたけなわとなった頃、いよいよ余興の時間が訪れた。
宦官の甲高い声が広間に響き渡る。
「次は楚氏の姫君、柳妃。御前にて歌を献じよ」
妃たちの間に、さざ波のような笑いが広がった。
「妓楼上がりの分際で」「御前で声など出まい。失敗すればよい」と悪意の視線が集中する中、柳妃は静かに広間の中央へと進み出た。
宦官が曲名を告げる。
「杏花、春を告げ、宸極を照らす」
柳妃は深く一礼すると目を閉じた。
声は出る。
喉の奥には、豊潤なオアシスの潤いが満ちている。
柳妃が息を吸い込み、唇を開いた瞬間……世界が躍動した。
杏の花 枝に満ちて 春の風を呼び
万寿の盃に 金色の陽が揺れる
願わくは 我が君の 御世の長久
千秋ののちも この花と共にあらん
これはいわゆる「杏花殿の歌」である。
皇帝の最愛の妃が住まう杏花殿で歌い継がれてきた、伝統の歌だった。
それは長楽殿の豪奢な天井を突き抜け、夏の夜空の星々まで届くかのような圧倒的な旋律であった。
絹糸が風に舞うような滑らかさ。心の奥底を揺さぶる深い響き。
培われた技巧に、歌手自身の魂の叫びが加わった歌声は、もはや人間の技を超えた「天上界の音楽」であった。
ざわめいていた妃たちは押し黙り、杯を持った手は宙で止まった。誰もが言葉を失い、ただうっとりと奇跡のような美声に聴き入った。嫉妬も出自による身分差も、暴力的なまでの芸術がねじ伏せた。
長い歌が終わり、最後の余韻が空中に溶けて消えると、広間は感嘆の溜息に包まれた。
「……見事だ」
景雲がゆっくりと立ち上がった。
「柳妃、そなたの喉はまさに天からの授かりもの。余の生誕を祝うにふさわしい最高の贈り物であった。大儀である」
皇帝からの直接の賛辞。柳妃は感極まり、涙を浮かべて深く平伏した。
「柳妃には、格別の褒美をつかわそう。翡翠の髪飾りと、絹五十匹を」
宦官が目録を見ながら復唱し、下賜品が柳妃の前に並べられた。
妃たちはギリッと奥歯を噛み締めた。これほどの賛辞と褒美を与えられたとなれば、次は当然――後宮の不文律であるあれが下されるはずだ。
素晴らしい芸を披露し、手柄を立てた妃には皇帝の寝所への召喚が約束される。すなわち待望の「夜のお召し」である。
柳妃は胸を高鳴らせ、ほんのりと頬を染めて景雲の次の言葉を待った。これでようやくお傍に行ける。晴れて「皇帝の女」になれるのだと確信した。
ところが――。
景雲は、この広間にいる誰もが予想だにしないことを言い出した。
「……余は少し疲れた。今宵はこれにて寝む。皆の者は引き続き楽しむがよい」
景雲はそのまま出口に向かって歩き出した。
「えっ……?」
柳妃は思わず顔を上げた。
「へ、陛下。お待ちくださいませ。わたくしへの……その、お召しは……?」
後宮の妃が夜伽をねだるなど、本来ならばあり得ない。
売女と蔑まれる恥知らずな振る舞いだが、極度の緊張と期待から気持ちが昂ぶっていた柳妃は、己を抑えることができなかった。
景雲は柳妃の前で足を止めると、冷たく言い放った。
「それには及ばぬ」
――その必要はない。
皇帝の冷たい一言に、柳妃の目が見開かれる。
「なぜ……なぜでございますか。そんな、あんまりでございます」
悲痛な叫びが、静まり返った広間に響いた。
「柳妃さま、なんということを……」
梅妃が呟き、席から腰を浮かせかけている。めでたい宴で皇帝の意向に逆らい、抗議するなどあってはならないことだった。
他の妃たちも息を呑み、この前代未聞の展開を凝視している。
「わたくしは、確かに歌を売って生きてまいりました。ですが、楚家の娘として正式に輿入れした陛下の妃であり、妻でございます。命を削って歌を捧げましたのに……一晩のお情けすら頂戴できないのですか」
柳妃の目から、はらはらと大粒の涙がこぼれ落ち、白粉が塗られた頬に痛々しい筋を作った。
彼女の心には、一人の女の顔が浮かんでいた。
憎い、と思った。……あの女が憎い。
皇帝が後宮に来るたびに召し出され、朝まで共に過ごしている凜華が。
同時に憎みきれないとも思った。彼女が喉を治してくれなければ、自分はこの場に立つことはできなかったのだから。
「卑しい出自は同じなのに。陛下はそれほどまでに……あの方を愛しく思っていらっしゃるのですね」
自分を救ってくれた恩人であり、皇帝の寵愛を独占している女。
羨望と憎しみがないまぜになった柳妃の問いかけに対し、景雲は沈黙をもって答えた。肯定も否定もしない。その底知れぬ沈黙こそが、最も残酷な拒絶の刃であった。
景雲は歩き出した。去っていく皇帝の背中を見つめながら柳妃はその場に崩れ落ち、激しい嗚咽を漏らした。
広間は、女の咽び泣く声と重く息苦しい沈黙で満たされた。
景雲は広間を出ると、慌てて追ってきた李元に言った。
「外廷へ戻る」
「……ええっ?」
李元とその部下たちは、素っ頓狂な声を上げた。
「陛下、ご体調が優れないのでしょうか」
「いや」
「で、では、広間にお戻りくださいませ。陛下のご意向に逆らった柳妃さまには罰を。そうでないと示しがつきません」
「その必要もない」
「でしたら……こちらにいらしてもよいのでは。私どもも、今宵は後宮に泊まられるとばかり。お支度もしておりますし」
宦官たちは困惑している。皇帝は何が不満で外廷に戻ろうとするのか理解できなかった。
皇帝の生誕祭は、宮城に勤める者たちにとっては年に一度の大イベントであり、毎年楽しみにしているものだった。祝いにかこつけて臨時ボーナスが貰えるし、ご馳走が食べられるからである。
外廷ではすでに大盤振舞が始まっており、身分に関係なく酒や肉、汁物、餅が振る舞われている。餅の中には銀子が入っていて、当たりが出るとさらに豪華な景品がもらえる。滅多に食べられない米や菓子なども配られていた。
内廷、後宮に勤める宦官たちが、皇帝からご褒美やおこぼれを期待するのも無理からぬことだった。
部下のためにも、なんとかしてこの場に留めたい。
皇帝の機嫌が直る起死回生の一手を繰り出すしかない。
李元は恐る恐る言った。
「陛下、では凜華殿を呼びましょう。今宵も彼女をお傍に。それでしたら……」
「……」
李元の提案に、景雲は心動かされないこともなかった。
これまでならば、皇帝の務めとして柳妃の期待に応えただろうし、彼女を召し出しただろうが……今はどうにも気が乗らない。後宮に泊まるのなら、女を呼ばなくてはならないなら、凜華がいい。
彼女と寝所に入り、安眠用の施策を受ける。のんびりと薬用酒や茶を飲む。
眠くなるまで、凜華がつらつらと話す医学だか薬だかのあれこれ(半分くらいは意味不明)を聞く。彼女との何気ない会話も、今は密かな安らぎとなっていた。
李元の言う通り、あれを呼ぶか。
だが……生誕の宴の夜に妃を退けて侍妾を呼んだとなれば、あれは明日からどうなるだろう。妃たちは恥をかかされたと思うだろうし、凜華は怒りの余波で袋叩きにされるのであるまいか……。そうなっては困る。
景雲はしばらく迷ったが、やがて未練を断ち切るようにきっぱりと言った。
「それにも及ばぬ。戻る」
「へ、陛下!」
すたすたと歩き出した景雲に、宦官たちが懸命に追いすがってくる。彼は背後の下僕たちを一顧だにせず、前だけを見据えた。
前方に布を被った女が立っている。
宴の最中から様子を伺っていたらしき絃楠は、景雲の意志をくみ取ると、身を翻して垂花門の方へと駆けていった。門を開けさせるためだった。




