第56話 声が出ない歌姫に効く喉薬とは<三>
「砂漠になった喉に、強引にオアシスを作るわよ。使うのは『麦門冬』、『五味子』、『石斛』。どれも東洋医学でいう『滋陰生津』――体に潤いを与え、枯渇した水分をドバドバ生み出してくれる極上の生薬よ。丸薬を飲んでいたのよね? だったらこれもそうするわ。たっぷりの蜂蜜で蜜練りにする」
蜂蜜は常備してあり、侍女がすぐに持ってきた。手際のよい作業によって、甘い香りを放つ黒褐色の丸薬が瞬く間に出来上がった。
しかし、それだけでは終わらない。凜華は最後に、丸薬に白っぽい粉末をパラパラと振りかけた。
「極めつけは、この『桔梗』の根っこの粉」
「き……?」
「そう。桔梗自体にも喉の炎症を抑える効果があるけど、今回の役割は別よ。桔梗はね、漢方の世界では『舟楫の剤』って呼ばれてるの」
凜華は、出来上がった丸薬を柳妃へ差し出した。
「舟楫っていうのは、船と櫂(オール)のこと。体に取り込んだ麦門冬や五味子の『潤い成分』を、桔梗が船に乗せて体の上の方――つまり『喉(上焦)』へと一気に運び上げてくれるのよ。いわば、潤いの特急便ってわけ」
「……」
「はい、これを水で飲んで。明日も明後日も飲むこと。……だけどね」
凜華は、茶器を受け取る柳妃に向かって冷静に言い放った。
「薬で治せるのは喉の疲労や炎症だけ。太医の『気血の滞り』という見立ても間違ってはいないと思う。私もあなたの心にあるもの、心因性のものは治せない」
「……!」
「これは推測だけど。緊張と不安から練習しすぎて……喉を痛めてしまった可能性もある。違う?」
柳妃は黙考し、やがて小さく頷いた。
声は彼女のすべてだった。この美声があったから身体を売らずに済んだし、皇帝の妃になれたのだ。
入宮してからも歌の師匠を呼び、毎日練習に励んだ。
日常生活でも喉によいとされる飲料や食べ物を摂るよう心掛け、乾燥を防ぐために水桶や湯桶を常に置いて室内の湿度を保たせた。うがいをし、喉を温め、蜜薬を飲むというケアを怠らなかった。
別のプレッシャーもあった。楚家からは、とにかく皇帝に目通りできるよう、手柄を立てて寝所に侍るよう、そして一日も早く子を身籠るようにと厳命されている。
投資分は回収するのが鉄則。そのために礼施を買って入宮させたのだから当然である。生誕の宴は手柄を立てる絶好の機会であり、失敗は許されない。
目の前の薬師も同じだ、と柳妃は密かに思った。異国の生まれで卑しい出自らしい彼女も薬や医学の知識を持ち、病を治すという一芸で皇帝に気に入られ、寵愛されている。
自分は薬師ではないから、歌で勝負するしかない。なんとしても、この声で皇帝を魅了しなくては……。
柳妃の気持ちを知ってか知らずか、凜華は達観したように言った。
「わかるわ。私も学会の発表前は緊張で眠れなかったし。こういうのはいくら事前に練習しても、何をしてもだめなのよね」
柳妃は丸薬を受け取ると、水を口に含んだ。粉のかかった丸薬を飲み下した。
数刻後の深夜。
柳妃の乾ききっていた口腔内には、じわりと唾液が湧き出し、喉の奥にこびりつく砂のような感覚もなくなった。
試しに声を出してみる。
「あ、あ……」
まだ掠れてはいたが、確かに音が戻ってきていた。
寝台の近くで横になり、うつらうつらしていた凜華が声を聞きつけて起きる。
「ほら、出た」と言って破顔した。
「はい……」柳妃は安堵して涙ぐむ。
「よかったわね。あとは本番までその丸薬を飲んで。水も沢山飲んで、絶対に喋らないこと。莨菪根の中毒が抜ければ元の声に戻るわ」
凜華が立ち上がって衣服の埃を払うと、柳妃は感極まった様子で寝台から滑り降り、凜華の足元にひれ伏した。
「あ、ありがとうございます。さすがは陛下が寵愛される御方。わたくし、このご恩は一生忘れません」
「はいはい、台無しになっちゃうからしゃべらないで。私はただの雇われ薬師。あなたが宴で歌えればそれでいいよ」
寝ずの番をしていた侍女が、つつっと歩み寄ってくる。
「あの、薬師さま。謝礼はいかほど……?」
太医は無給であり報酬を受け取ってはいけないことになっているが、命を預ける者たちである。手を抜かれてはたまらないと、密かに袖の下を渡すのが慣例になっている。
太医ではないが、皇帝付きの薬師なのだから同じだろうと考えた。
凜華はうーんと唸ったが、すぐに陽気に言い放った。
「いらないわ。今回はサービスしてあげる」
「で、ですが……」
「丸薬の材料も薬師房のものだしね。その代わり、化粧品を継続して買ってちょうだい。まとめ買いしてくれたら安くするよ」
凜華はにやっと笑い、呆気にとられる柳妃と侍女を置いて颯爽と部屋を出て行った。




