第54話 声が出ない歌姫に効く喉薬とは<一>
さて、古今の歴史を見渡せば、美声とはそれだけで一芸であり、芸は身を助くものであった。
自らを天才歌手と信じて疑わなかったローマの暴君ネロは、己の喉を労わるために重い鉛の板を胸に乗せて眠り、酸味のある果実を避けたという。
重い鉛の板がいかなる理由で美声につながるのかは不明だが、己の声帯一つに人生と富と名声が懸かっているとなれば、人間はどこまでも努力を重ねる生き物なのである。
この日、うららかな午後の日差しが差し込む先春殿では、梅妃の主催による豪奢なお茶会が開かれていた。
卓の中心で黄金色の輝きを放っているのは、凜華が特別に調合した「龍眼長楽金花茶」である。
湯を注げば茶器の中で黄金色の花がふわりと開き、えもいわれぬ爽やかな香りが漂う。
「まあ、素晴らしい香り。さすがは梅妃さま。このような珍しいお茶を召し上がっておいでとは」
「ええ、お肌にもすこぶる良いとか」
「美味でもあるし、文句のつけようがありませんわね」
周囲を囲む妃たちが、口々に梅妃を褒めそやす。
茶自体が頻繁に飲めるものではないので、ここぞとばかりに味わって飲んでいた。
後宮の妃たちは、本来ならば厳格な階級が存在する。皇后を頂点とし、その下に四夫人、さらに九嬪といった具合に明確な位階と序列が定められているのが常である。
しかし、現在の後宮においては、このヒエラルキーが完全に機能不全に陥っていた。何しろ、皇帝である景雲が後宮の女たちを放置している。妃は誰も寵愛を受けておらず、誰も妊娠しておらず、誰も出産していない。したがって、特筆すべき功績を上げた者はおらず、高位の位階を得た者はいなかった。
これが一人でも妊娠しようものなら奇妙な平和も均衡も崩れ、親族や実家を巻き込んでの壮絶な闘争と駆け引きが始まり、陰湿な毒や刃物が飛び交う事態に陥りかねないが、現在は全員が「ただのヒラの妃」というどんぐりの背比べ状態。
こうなると、女たちの間で何が序列を決めるかといえばひとえに「出自と財力」であった。
その点、名家の出身であり、実家から潤沢な仕送りを受ける梅妃は一目置かれる存在となっていた。
「実はね、あの薬師なのだけど。先日、私の所に挨拶に参りましてよ」
梅妃は金花茶の入った茶碗を優雅に傾けながら、ふふと自慢げに笑った。
「自分が作った化粧品をわざわざ献上しにね。『梅妃さまの美しさの足しに』と。小生意気な顔をしておるが、あれはあれで己の立場というものをわきまえておるのです」
実際には、凜華が「あんた影響力ありそうだから化粧品を広める手伝いしてよ。売れたら安くしてあげるから」と、ちゃっかり販売代理人に仕立て上げただけなのだが、梅妃側にも充分メリットはある。
高級化粧品や日用品が格安で手に入るし、皇帝の寵愛厚い凜華を配下ということにすれば後宮内で力が増す。
「どうです? 皆さまも。私が口利きをして差し上げますわよ。あの者の作る化粧品は滑雪膏よりは安いし、肌も荒れませぬ。私も日々使っておりますが問題はなく。安全な代物と太鼓判を押しましょう」
としきりに勧めて、アフィリエイトに励んでいた。
卓上に、凜雪膏の小壺、化粧下地と白粉、口紅、眉墨やアイシャドウ、色とりどりの使いきりの練り香、高級石鹸などを並べさせる。
目移りする多色展開に香りの違う石鹸。
美しいラインナップに、妃たちやその侍女の胸はときめいた。
彼女たちは「梅妃さまのご紹介なら安心ですわ」と口々に言い、凜華の化粧品を競って注文した。お茶会はあっという間に化粧品の展示即売会と化した。
滑雪膏は高すぎて手が出せなかったが、それに比べればリーズナブルなお値段設定。女官でも頑張れば買えるのが嬉しい。
実のところ、妃たちは皆、凜華ばかりが皇帝に召し出されることに嫉妬の炎を燃やしていた。一介の洗濯女の分際で、と腹の底は煮えくり返っていたのだ。
しかし、梅妃が「あれは身の程をわきまえた下働き」と定義してくれたおかげで、彼女たちの溜飲は大きく下がった。
「凜華とやらも、薬師といえ所詮は侍妾。妻にはなれない日陰者ですもの」
「陛下も、ちょっとした物珍しさで構っておられるだけでしょう。紅や白粉を売らねば生活できないのですから、私どもが買ってあげませんとね」
妃たちは互いに顔を見合わせて笑い合い、凜華を「便利な道具」と見なすことで精神的な安定を保つのだった。
そんな席で、妃の一人が部屋の隅でひっそりと茶を啜っていた女性に目を向けた。
「そういえば……柳妃さま」
声をかけられたのは、章台殿に住まう柳妃――本名は楚礼施という儚げな容姿を持つ妃であった。
彼女は、地方の豪族である楚家の出身だが、楚氏と血縁関係はない。元々は妓楼で歌を唄う「歌妓」であった。
礼施は宴席には出ても、客に身体を売ることはなかった。
絹糸のようになめらかで、天上界の鳥のように澄み切った美声という、天性の才能を持っていたからである。妓楼は彼女を一番高く売って儲けるべく、芸だけを磨かせたのだ。
市井には、金はあるがコネはない田舎貴族をターゲットにした「入宮コンサルタント」とでも言うべき、怪しげな業者が存在する。業者は、楚家に中央進出への足掛かりになるとしきりに娘の入宮を勧め、一芸を持つ若い女の斡旋をした。
後宮には美女は掃いて捨てるほどいる。美しいだけでは皇帝の気は引けない。何かしら突出したものが必要だと説き伏せたのだ。当然のことながら、業者と妓楼は裏で繋がっている。
野心あふれる楚家は、業者が勧めるまま大金を払って礼施を身請けした。楚家の養女となった礼施は、宮廷の礼儀作法を教えこまれ、皇帝への献上品として入宮したのだった。
金で芸達者の女を用意する「特技枠」での入宮は珍しくないが、名家出身の妃たちからすれば礼施は卑しい妓楼上がりの女。柳妃は妃たちが集まる場でも見下され、侮られがちであった。
「柳妃さまは、確か……陛下の生誕の宴にて、御前で歌を献じるのでしたわね?」
意地の悪い妃の言葉に、柳妃はビクリと肩を震わせ、消え入りそうな声で答えた。
「は、はい。そのように仰せつかっております」
「まあ、それは楽しみ。さぞや玄人裸足の素晴らしい美声を聞かせてくださるのでしょうねえ」
クスクスと扇の陰から漏れる毒を含んだ笑い声。
「何しろ、そちらが『本業』だったのですから。私たちとは鍛え方が違いましてよ。酔客相手に、一曲いくらで切り売りされていたのか」
「売っていたのは歌だけなのかしら。それ以上の奉仕も……? まさかね」
柳妃は、あからさまな嘲笑にじっと耐えた。膝の上で両手を固く握りしめ、引き攣った愛想笑いを浮かべるしかなかった。




