第53話 飲むだけで痩せる薬なんてないから<六>
「……」
室内には沈黙が落ちたが、予想に反して景雲は怒らなかった。
ただどこか恨めし気な、複雑な光を帯びた瞳で凜華をじろりと睨みつけただけだった。
「……ふん。まあ、邑主が助かったならそれでよい。凜華、茶を淹れよ」
「はーい」
凜華は答えると、すっくと立ち上がった。
「えっ、お咎めなし?」と寛姫は混乱するばかりである。
寛姫は皇室の一員。特に深い交流があったわけではないが、少女の時分から景雲とはたびたび顔を合わせてきた。
彼女が知る景雲は、幼い頃から神経質で癇の強い子だった。十歳で即位してからは、叔父を始めとした男性皇族や高官にいつも囲まれていた。父親に似て、冷たく苛烈な性格であるとも思っていたのだが。
今の景雲は……これまでの彼とは違う気がする。幾分穏やかになったというか、尖っていたものが丸くなったというか。
凜華は「じゃあ、また後で来ますから」と寛姫に言い、景雲について部屋を出ていった。
廊下から、二人ののんびりとした声が聞こえる。
「折角だから新作を淹れよっと」
「また私で試す気か」
「私はあなたにしかお茶を淹れないからね」
「……」
「ミルク入れる?」
「ああ」
「甘いのは? 蜂蜜とか」
「いらん」
「疲れてるなら、少し糖分取った方がいいよ」
「では入れろ」
「薬用酒も飲む?」
「それは夜でいい」
会話する声が徐々に遠ざかっていく。景雲の声は、素っ気ないながらもどこか高揚しているように聞こえた。
嵐が去った後、寛姫は力が抜けながらも凜華に畏敬の念を抱いた。
「すごい……。皇帝の愛妾ともなると肝が据わっている。陛下にあんな口を利いて許されるなんて」
皇帝といえども、惚れた女には弱いのか。凜華の生意気な態度も、愛されているがゆえの自信や我儘に思えてならない。
勘違いはさておき、凜華の物怖じしない堂々たる態度は夫の機嫌を取ることばかり考えていた彼女の心に、小さな勇気の炎を灯した。
「痩せるなら自分のために、か」
髪のない頭を撫でながら呟く寛姫の目には、帝族の姫としての気高さが戻りつつあった。
居間に移動すると、凜華は運ばれて来た茶葉をすり鉢で丹念にすり潰して粉茶にした。
鍋に入れた牛乳は沸騰させず、湯気が立つ程度の温度で粉茶を溶かす。竹の棒で激しくかき混ぜ、表面に細かい泡を作った。茶碗に入れて最後にクリームを盛り、大粒の塩をパラパラとふりかけ、蜂蜜をとろりと垂らす。
凜華は自信たっぷりに茶碗を差し出した。
「はい、『凜華式・濃厚塩緑茶ラテ』だよ」
「……らて?」
また変なものが出てきたと思いつつも、景雲は茶碗を受けとった。
「うん、ラテ」
「どういう意味なのだ」
「イタリア語で牛乳」
「……」
景雲は思った。そもそも「イタリア語」がなんなのかわからない。しかし、これを尋ねてしまったら永遠に(不毛な)会話が終わらない気がする。
「だったら、濃厚塩緑茶牛乳でよいではないか」
「そこはさあ~おしゃれな語感を楽しまなくちゃ」
「何がおしゃれなのだ。お前の言うことはさっぱりわからん」
文句を言いつつも、口に入れると濃厚な牛乳と香り高く濃い茶の味が広がる。高温にしなかったため、茶の苦味はない。
アクセントの塩と蜂蜜が、あまじょっぱいハーモニーを奏でる。
「……ふむ。落ち着く味だ。悪くない」
「でしょ? 生姜や山椒を少し入れてもいいと思うよ」
ゆっくりとラテを啜りながら、景雲は凜華の解毒にまつわる報告を受けた。聞き終わると言った。
「では、商人とやらは毒を痩身剤と偽って邑主に高値で売ったということか。悪辣な詐欺ではないか」
「ほんと、最低の犯罪よ」
凜華は憤慨しながら、肩をすくめて見せた。
「タリウムをダイエット薬にするなんて前代未聞だし。これは私の故郷でも第一級の毒物。確かに飲めば痩せるけど、身体を内側から壊すのだから当たり前」
「お前の故郷でもか」
「うん。以前は殺鼠剤として普通に売られてたけどね。タリウム自体は白か灰色の粉。それがタリウムと硝酸を合わせて作る硝酸タリウムになると、無色で無味無臭。水に溶けるし、沈殿もしない。おまけに遅効性だから」
「盛った側は逃げる時間があり、証拠も隠滅できる」
「そう。まさに暗殺のための毒よ。検出もされにくいから、殺人とかおかしな事件に悪用されちゃって。今じゃ国に申請しないと手に入らないわ」
日本では一九六〇年代まで、タリウムの入った殺鼠剤が普通に薬局や金物屋で売られていたが、七〇年代に入ると毒性の強さから販売禁止になった。
その後もタリウムを使った殺人事件の影響などで、規制は厳しくなる一方である。
凜華が物騒な事情を簡単に語ると、景雲は冷笑した。
「医学に関しては進んだところだと思っていたが、お前の故郷も大概だな」
「どこも同じよ。毒物があれば、誰かに盛りたくなるのが人間の性みたい。愛憎のもつれか、邪魔者消しか……嫌な生き物よね」
凜華が達観した顔で言い捨てると、景雲は「違いない」と短く同意した。
数日後。
起き上がって動けるようになった寛姫は、急いで作らせた簡易のカツラを被り、趙夫人と共に後宮を後にした。
寝ている間に色々と考えたようで、屋敷に戻ったら夫と妾たちをどう料理しようかという不敵な笑みすら浮かんでいたという。
そして、しばらくたったある日。
凜華のいる住居房に、寛姫から莫大な謝礼金と共に大量の荷物が運び込まれた。
言づてを預かった宦官が、うず高く積まれた木箱を前にして報告する。
「こちらは秋淵邑主さまからの、謝礼の品にございます。邑主さまは『目の前に菓子があってはつい食べてしまう。健康的な生活と痩身に励むため、屋敷にあった菓子はすべて凜華殿に贈る』と仰せでした。どうかご下賜品としてお受け取りくださいませ」
木箱の中には、西域産の高級な砂糖菓子、蜜に漬け込んだ果実、胡麻と油をふんだんに使った焼き菓子、揚げ煎餅、蜂蜜を練り込んだ乾パンのようなもの、ドライフルーツなどがこれでもかと詰め込まれていた。
「どんだけ溜め込んでたのよ。あのお姫さまは」
凜華が呆れながら笑い、奥で薬瓶を磨いていた寿寿を呼び寄せた。
「寿寿! お茶の準備よ。今日はパーティーをしよう。みんなも仕事が終わったら呼んで」
「ぱーてぃ?」
「宴会、宴会。私は飲まないけど飲み会」
「宴ですか。えっ、いいんですか。こんな高価そうなお菓子……!」
「いいのいいの。私たちは毎日、頭と身体を使ってがんがんカロリーを消費してるんだから。たまには糖分を補給しないとね。ダイエットなんて、余裕のある金持ちがやってりゃいいの」
後宮の片隅で、女たちの笑い声が響く。
酒を飲み、お茶と菓子を頬張りながら、下女たちの女子会は大いに盛り上がったのだった。




