第52話 飲むだけで痩せる薬なんてないから<五>
凜華が寛姫に飲み込ませた紺青の解毒剤は、その化学的使命を完璧に果たした。
青い色素の網は、寛姫の体内を我が物顔で荒らし回っていた重金属「タリウム」の分子を片っ端から捕縛し、便と共に体外へと排出させた。
刃物で斬られるようだと悶絶していた末梢神経の激痛は、数日経つ頃にはすっかり霧散し、寛姫は自力で半身を起こせるまでに回復していた。
しかし、命の危機が去った後に残されたのは残酷な現実であった。寛姫の頭部には、もはや一本の産毛すら残っていない。墨をとめどなく流したようだと讃えられた自慢の髪は、タリウムの毒牙によって毛根の機能を破壊され、つるりとした青白い地肌を晒している。
「……私の誇りだった髪が全部なくなってしまった」
手鏡を覗き込んだ寛姫は、そこに映る姿にポロポロと大粒の涙をこぼした。
「痩せて美しくなるはずだったのに。これではまるで化け物。夫にも憎らしい妾たちにも笑われてしまうわ」
沈む邑主を前にして、凜華はあっけらかんと言った。
「そんなに落ち込まないで。毛根が死滅したわけじゃないから。毒が完全に抜けて栄養状態が戻ればまた生えてくるから。しばらくはカツラを使えばいい。職人に頼んで立派なものを作れば、外部の人間にはわからないって」
凜華の慰めに、寛姫は嗚咽を漏らした。
「あなたにはわからないのです……。私が、屋敷でどれほど惨めな思いをしてきたか」
寛姫は、堰を切ったようにまくし立てた。
「夫にも豚だと馬鹿にされて……辛くて、悔しくて。太った姿を誰にも見られたくなくて、奥に引き籠るしかなかった。痩身薬に頼ったのは、夫の愛を取り戻したかったからなのに」
涙で顔をくしゃくしゃにして泣き崩れる寛姫。
女の価値が「夫からの愛情」のみで計られるこの世界では、彼女の悲哀は極めてありふれており、世界の終わりのような絶望であった。
だが、現代日本の価値観を持つ凜華にとっては、気持ちはわかっても全面的に賛同しがたい部分がある。
「うーん、恋愛や結婚は楽しいだろうし、別にそれ自体を否定する気はないんだけど」
凜華は寝台に腰かけると、寛姫を真っ直ぐに見据えた。
「でも男を待つだけが人生じゃないと思うなあ」
「え……?」
「旦那もちょっとおかしいよ。妻が太ったくらいで豚呼ばわりして、他の女といちゃつくなんて。そんな不良債権みたいな男の愛を取り戻してどうするの? アホな旦那のために自分の体を痛めつけるなんて勿体ないよ」
「勿体ない?」
「うん、時間と労力の無駄」
「無駄?」
凜華の身も蓋もない言いざまに、寛姫は目を白黒させた。
帝室の姫である彼女の辞書には「夫を不良債権扱いする」という考えそのものが存在しなかった。
「とにかく、甘い言葉は信じないで。私がリバウンドしない現代の……いえ、最新の医学に基づいた『正しいダイエット』を教えてあげます」
「りばうんど? だいえっと?」
凜華の瞳がきらりと輝く。
「まず大前提として、極端な絶食は禁止。体が飢餓状態だと勘違いして、逆に脂肪を溜め込みやすくなるからね。大事なのは、筋肉を落とさずに基礎代謝を上げること。赤身の肉や魚、大豆などのタンパク質をしっかり摂る。血糖値を急上昇させないように必ず野菜から食べる。そして、適度な運動よ。部屋に引き籠って泣いてる暇があったら、庭を早足で散歩しなさい」
凜華による熱血「健康・栄養学レクチャー」が始まった。
カロリー計算の概念……は置いといて、食物繊維の働き、有酸素運動の重要性。最初は戸惑っていた寛姫も、凜華があまりにも理路整然と「人体の仕組み」を解説するため、次第に涙を拭い、真剣な表情で聞き入るようになった。
「飲むだけで痩せる薬なんて百パーセント詐欺だからね。今回あなたが飲んでしまったタリウムなんてのは、論外中の論外。飲むなと言ったお母さんが大正解よ。もう絶対に騙されないで」
凜華は、寛姫の手をぎゅっと握った。
「痩せるということは、己の命を削ることじゃない。正しい食生活を送って、己の身体を慈しむことなの。ダイエットをするなら、旦那のためなんかじゃなくあなた自身の健康や幸せのためにして。夫の気を引くために死ぬ必要なんてどこにもないから」
「そうなの?」
「そうだよ」
凜華が明るく笑いかけた、その時である。
入口の方から、男の醒めた声が響いた。
「ほう? 随分と調子に乗っておるではないか、凜華」
「ひっ……!」
寛姫は悲鳴のような声をあげ、縮み上がった。
いつの間にか、扉の前に景雲が立っていた。気配もなく現れた最高権力者は腕を組み、面白からぬ表情で凜華をじっと見ている。
「へ、陛下! いつからそこにいらしたのですか。申し訳ございません。このような見苦しい姿をお見せして……」
寛姫は寝台の上で慌てて平伏しようとしたが、景雲はそれを手で制した。
「夫のために死ぬ必要はない、か。後宮に住まう女の口から出る言葉としてはいささか聞き捨てならんな」
凄む皇帝に、寛姫は生きた心地がしなかった。
皇帝は後宮にいるすべての女の主人であり、唯一の「夫君」である。その威光を真っ向から否定するような凜華は、不敬罪で首が飛んでもおかしくない。
これが先帝であったら、間違いなくこの場で斬り捨てられている。寛姫は幼少期から、そのような例を幾つも言い聞かされていた。
寛姫は凜華の耳元に囁いた。
「りりり凜華さん! 陛下はあなたの主人なのよ。だめよ、そんなことを言ってはだめ。殺されてしまうわ。謝って謝って!」
「えっ、大丈夫ですよ」
「何言っているの。大丈夫じゃないわよぉ!」
寛姫は声にならない焦燥を迸らせ、おろおろと視線を泳がせた。
ところが凜華は悪びれる様子もなく、けろりとした顔で景雲に言い放った。
「別にいいじゃないですか。陛下には関係ない話ですよ。私は陛下と結婚してるわけじゃないし。ただの雇われ薬師だもの」
「……はぇッ!」
寛姫は驚愕のあまり、心臓が止まるかと思った。
侍妾でありながら、皇帝に向かって「結婚してないから関係ない」と言い放つとは……。どこをどうしたら、そんな図太いを通り越した極太すぎる神経になれるのか。
いや、神経がどうこうという話ではない。この女は一体全体どうかしている。頭がおかしいと言わざるを得ない。




