第50話 飲むだけで痩せる薬なんてないから<三>
事態の深刻さに空気が凍りつく中、凜華は勢いよく袖を捲り上げた。
「タリウムなら一刻の猶予もないわ。大至急、解毒剤を作らなきゃ」
「解毒できるのか」景雲の問いに、凜華はあっさりと言った。
「うん。タリウムは可能だよ。寛姫さんを救うには、この世で最も深い『青』が必要」
「青……?」
凜華は部屋を出ると、待機していた李元たちに指示を飛ばした。
「李元さん。私が今から言う材料を用意して。ちょっと特殊だけど、宮城内には必ずあるから」
訳もわからず駆け出していく李元たちを見送ると、凜華は庭に火を起こす準備を始めた。
宵闇が降りた長楽殿の裏庭、さらに奥まった石舞台の上にいくつもの火鉢が並べられていた。
ふわりと流れる夜風に乗って、おぞましい臭気が辺りに漂う。それは動物の角を焼き、干し固めた血が焦げるという鼻を突くような生臭さと焦げ茶色の煙だった。
鼻を布で覆い、顔をしかめながら庭に入って来たのは周但娘だった。
主人の梅妃のお供で秋淵邑主の見舞いにやってきたのだが、邑主は重症で面会謝絶。すでに凜華が診断を下して治療に入っているという。
梅妃も邑主を見舞えるとは思っていなかった。景雲が来ていると聞いて会いにきたのだが……完全に入れ違いだった。景雲は官僚たちに呼ばれて、すでに外廷に戻っていた。梅妃はがっかりして帰っていった。
但娘は、宦官たちが「薬師は庭で動物の死骸を焼いておられる」と話しているのを聞き、気になって残ったのだった。
彼女の視線の先では、同じく布のマスクをした凜華が汗を拭いながら、鉄釜の中で煮え立つ不気味な「黒い灰」を熱湯で濾していた。
「うっ、ひどい匂い。あんた、何してんのよ。いよいよ魔術の儀式でも始める気?」
但娘の声に、凜華は振り向いた。
「ひどい言い草ね。解毒剤を作ってんのよ」
「全然そうは見えないけど。……匂いだけで頭がクラクラする」
凜華は証拠とばかりに、濾過して得られた薄黄色の液体を見せた。
「これは黄血塩。牛の角と血液を木灰と一緒に真っ赤になるまで焼き尽くして作ったもの。角に含まれる窒素と炭素を強制的にカリウムと結びつけたの」
「……よくわかんないけど解毒の材料なのね」
「うん、まあ。黄血塩自体も猛毒のシアン(青酸)の骨組みを持っているけどね。鉄と結合しているから、毒性を発揮できない」
但娘は怪訝そうに、卓の上にある別の皿を指差した。
そこには、エメラルドのように輝く緑色の結晶と雪のように白い結晶が並んでいる。
「そっちの石は? 宝石を砕いたもの?」
「こっちの緑は硫酸第一鉄。緑礬。鉄の供給源ね。白いのは明礬。染織に必ず使うものだから、染織局からわけてもらったの。色が沈殿するのを助け、鮮やかさを安定させる仲介役よ」
「……角の灰と、染め物用の石。それがどう繋がるっていうの?」
凜華は答えの代わりに、緑礬と明礬を溶かした水溶液を、黄色い液の中へと一気に注ぎ込んだ。
「見ていて」
途端、液体の色が劇的に変化した。無色に近かった液体が、底から湧き上がるようにして見たこともないほど深く濃厚な「青」へと塗り替えられていく。
夜の帳をさらに濃縮したような、吸い込まれそうなほどに美しい紺碧だった。
「うわ、きれい。なんて深い青なの」
思わず見惚れた但娘に、凜華は満足げに頷いた。
「これが紺青、プルシャンブルー」
「ぷるしゃんぶるーっていうんだ」
「プルシャンブル―の結晶構造は、ジャングルジムみたいな格子状の隙間を持っているの。その隙間が、タリウムという猛毒だけをぴったりと捕まえる。二度と離さない『檻』になる」
プルシャンブルーの結晶格子には、ちょうどタリウムイオンがぴったりとはまり込む「隙間」がある。腸内に投与されたプルシャンブルーは、自身が持っているカリウムイオンを手放す代わりに、猛毒であるタリウムイオンをその格子の中に閉じ込める。
タリウムを捕まえたプルシャンブルーは吸収されることなく、そのまま便として体外へ排出される。これを「腸肝循環の遮断」と呼ぶ。
凜華は沈殿した青い泥を、丁寧に布で濾し始めた。この美しくも奇妙な「絵の具」こそが、目に見えない毒を物理的に捕縛する武器になる。
但娘が感心したように言う。
「これが解毒剤ねえ……。こっちの方が毒にしか見えないけど。身体に悪そう」
「元はシアンだし、一種の魔法ではあるかも。自然界の理を組み換えて、毒を制するものに作り替えるわけだから」
涼しい風が吹き抜けてゆく。悪臭が漂う中、二人の若き医女の前に、鮮やかな青の結晶が積み上がっていく。
「よーし、出来た。タリウムの唯一の特効薬よ」
凜華は、出来上がったばかりの濃いインクのような青い液体を器に移し、寛姫の寝所へと足早に向かった。こうなったら見届けねばと但娘もついてくる。
しかし、部屋の入口には予期せぬ壁が立っていた。趙夫人である。
「待ちなさい。その青い液は何?」
趙夫人は、血相を変えて凜華の前に立ち塞がった。
「これ? 解毒剤です」
趙夫人は凜華と手の中のプルシャンブル―を交互に見、声を張り上げた。
「これが? どう見ても絵の具じゃないの。こんなものを飲ませるなんて、あの子を殺す気? ただでさえ毒で苦しんでいるというのに」
「絵の具だけど、絵の具じゃないよ。この青い液が正真正銘タリウムの解毒剤なんだってば。現代でもこれしかないの!」
凜華が怒鳴り返すが、半狂乱の母親に理屈は通じない。
「やめて。そんな気味の悪いものを娘の口に入れないで。死んでしまうから!」
「ああもう邪魔! 但娘、お母さんを押さえて!」
「なんで私が?」
と但娘は抗議するが、凜華は夫人の脇をさっとすり抜けて部屋に飛び込んでいく。
「し、失礼します!」
但娘は追いかけようとする趙夫人を羽交い締めにする。
そのままずるずると廊下を引きずっていく。さらには大声で宦官たちを呼んだ。三人がかりで、わあわあ喚く趙夫人を別室に閉じ込めた。
凜華は、寝台の上で恐怖と痛みに震える寛姫に詰め寄り、その鼻先にプルシャンブル―を突きつけた。
「寛姫さん、いい? これはあなたの体の中で暴れている毒を捕まえて、外へ連れ出してくれる網なの。信じて飲んで」
「い、嫌よ……。怖いわ」寛姫はブンブンと首を横に振った。
「怖いもへったくれもないでしょ。というか、あなたが死んだら私があなたのお母さんに殺されるから。こっちの命もかかってるの。四の五の言わずに全部飲んで!」
半ば脅迫じみた勢いで、凜華は強引に寛姫の口をこじ開けた。青の解毒剤を一気に流し込んだ。
ごくん、という音と共に、鮮やかな青が体内へ吸い込まれてゆく。
寛姫は一度大きくむせたが、吐き出すことはなかった。
やがて薬が神経の興奮をも鎮め始めたのか、ゆっくりと目を閉じた。そのまま落ち着いた寝息を立て始めた。




