第49話 飲むだけで痩せる薬なんてないから<二>
長楽殿の廊下。
凜華は、景雲の隣りを憮然とした顔で歩いていた。
「なんで私がお姫さまの診察をしなきゃいけないの。皇族は太医の管轄でしょ。私が診たら、患者を取られたと恨まれそう……」
景雲に呼び出され、事の顛末を聞かされた凜華の第一声は、極めて後ろ向きなものであった。
皇族を診るのは太医の役目。彼らの仕事に手を出したら、面倒なことになるのではないかという懸念があった。
顔を突き合わせるわけではないが、同じ薬師房の薬を使っているのだ。先日も使いすぎだとクレームがあったという。彼らとは極力揉めたくない。
景雲は口端に皮肉な笑みを浮かべ、宥めるように言った。
「仕方あるまい。母親の趙夫人がお前を指名しているのだ」
「家族のゴリ押しかあ……」
「それに秋淵邑主はその名の通り、邑を幾つか所有している。領主としての地代収入があるし、降嫁した大官の家は大金持ちだ。もしお前が病を治せば、莫大な謝礼が貰えると思うがな」
ピタッと凜華の足が止まった。「莫大な謝礼」という単語が、即座に生薬や器具、研究予算へと変換される。
「やります! やらせてください!」
先ほどまでの気怠さはどこへやら、凜華は景雲の顔を見つめて即答した。現金なものである。
長楽殿の一室に運び込まれた秋淵邑主・寛姫の姿は、それなりの症例を知る凜華の目から見ても、酷く痛ましいものだった。
かつては豊かな髪があった頭部には、今や髪の毛一本すら残っていない。青白く剥き出しになった頭皮は異様な光沢を放ち、頬はげっそりと削げ落ちている。
何より異様なのは、彼女の「痛覚」であった。
「熱い! 痛い! 嫌よ、触らないで。刃物で斬られているようだわ!」
侍女がそっと掛けた布団が足の甲に触れただけで、寛姫は身をよじって絶叫した。
傍らでは、趙夫人が「ああ、可哀想に! 婿殿のせいだわ、あの男が娘をこんな目に!」と金切り声を上げている。
「お母さん、少し静かに。今から診察しますから」
凜華は趙夫人を黙らせると、寝台に腰を下ろした。
景雲は少し離れたところに腰かけて様子を見ている。
婦人の診察に立ち会うのもどうかと思ったが、邑主そのものは見えないし、凜華がどういう診断を下すのか興味があった。
凜華はまず、寛姫のつるりとした頭部を注意深く観察した。
全脱毛であるが、頭皮に発疹や物理的な炎症の痕跡はない。つまり、外部からの刺激や皮膚病によるものはなく、体内から何らかの作用が働いて抜けてしまった。
次に、凜華は寛姫の足元へ視線を移した。布が触れただけで「刃物で斬られるよう」と叫ぶ異常な痛熱感。
これは「異痛症」。通常なら痛みを感じない程度の軽い接触刺激でも、激痛として脳に伝達されてしまう症状。どうやら末梢神経の髄鞘が破壊されているようだ。
脱毛の時点で、思い当たる節があった。前の薬師が下した「血熱生風」という曖昧なものではない。これはもっと物理的で、凶悪な物質による侵襲ではないかと。
「ちょっとだけ我慢してね」
凜華は寛姫の手を取り、その「爪」を陽の光にかざした。寛姫は痛みに顔を歪める。
そこには、凜華の予想を裏付ける決定的な「証拠」が刻み込まれていた。青白い爪の表面には、地層のように走る一本の「白い三日月」のような横線。
「……ミース線だわ」
凜華の呟きに、景雲が声をかけた。
「みーすせん? なんだそれは」
「爪の成長過程で、ある特定の物質が体内に蓄積したときに現れる沈着紋。木の年輪みたいなもの」
凜華は寛姫の手を布団の中に戻すと、きっぱりと告げた。
「陛下。そしてお母さんも。これはたぶん薬害か毒だと思うわ」
「やはり婿殿が毒を!」趙夫人が猛るのを、凜華はまあまあと宥める。
「婿殿憎しはわかったから。でも旦那が盛ったとは限らないでしょ。寛姫さんは最近何か変わった化粧品を使ったり、薬を飲んだりしていなかった?」
「ああ、それならこの子が毎日飲んでいたのがあるよ。身の回りのものは全部持ってきたからね」
趙夫人は荷物をごそごそと探り、小さな壺を差し出した。
凜華は受け取って中を覗いた。黒い丸薬がびっしり入っている。匂いを嗅いだが無臭である。
「これは何?」
「西域の商人から買った痩身薬みたいだよ。私はそんな得体の知れないものは飲むなと言ったんだけど、聞かなくて」
趙夫人は言いながら娘を軽く睨んだ。寛姫は観念したようにぎゅっと目を瞑っている。
「痩身薬……ダイエット用の薬か。サプリメントみたいなもん? 症状を見るに、たぶん病気の原因は重金属だと思うんだけど」
「重金属?」
「細胞を窒息させ、神経を焼き切り、髪を根こそぎ抜け落とさせる毒」
途端、室内はしんと静まり返る。
痩身薬のせいなのか、それとも本当に夫の陰謀なのか。どちらにせよ、寛姫の体内には毒素が満ちている。
凜華は丸薬をつまみ上げた。
「……さて。この『飛天仙露丸』とやらが、本当に薬なのかどうか。いっちょ白黒、いや、色をつけて暴いてみよう」
凜華と景雲は、火鉢の置かれた隣室へ移動した。
凜華はまず乳鉢で丸薬をゴリゴリと粉砕した。
細かく砕かれた粉末を少量の水で溶き、白磁の破片の上に一滴だけ垂らす。
火箸を使い、赤々と燃える炭火の真上へ破片をかざした。
一瞬の静寂の後、パチパチと爆ぜる赤い炭火の中から、突如としてこの世のものとは思えない炎が立ち上がった。
それは森の深緑とも、翡翠の輝きとも違う。どこか毒々しい蛍光を帯びた、不気味で鮮烈な「緑色」の炎であった。薄暗い室内に、緑光がゆらゆらと妖しく反射する。
「……按ずるまでもないわ」
凜華は火箸を下ろすと厳しい顔で言った。
「これは薬じゃない」
「毒か」景雲の声も低まる。
「脱毛の症状があって鮮やかな緑が出るなら決定的。銅も緑色だけど、もっと青味がかっているし。この丸薬には極悪非道な重金属の『鉈』、タリウムが入っている。硫化鉱物を精製する際に出る煤に混じっているものよ」
タリウムは鉱石に含まれる不純物であり、純粋な「金属タリウム」が単独で自然界に転がっていることはまずない。
この世界なら「精錬所の煙突に溜まった煤、煙道灰」あたりを集めれば手に入るだろうが、薬として使うことはありえない。あくまでも現代日本の常識に照らせば、の話だが。
「タリウム……?」
景雲が、何かを思い出すように天井を見上げる。
「以前、お前が地下室の謎を解いた時に言っていたアルゴンを作るという石か。あれは毒なのだな」
「それはカリウム!」
凜華はすかさずツッコミを入れた。
「カリウムは体に必要なミネラル。タリウムはわかりやすく言うと殺鼠剤よ。信じられない。ダイエットのために、こんな凶悪な毒を飲んでいたなんて……ひどすぎる」




