第45話 百年前から時を止めた妃の謎を解くぞ<五>
皇帝の妃でありながら、宦官と密通して駆け落ちを企てた――という不名誉な罪状は、凜華の科学的知見(といささかの好奇心)によって疑義を呈するものになった。
百年ぶりに名誉を回復しかけた露珂妃であったが、後宮のしきたりは死者の事情よりも体面を重んじる。
一度は「不貞の輩」として罪人に落とされた身ゆえ、皇帝の妃として葬られることはない。酸素に触れたことで腐敗を始めた遺体は、人知れず外へと運び出された。宮城の外で手厚く、ひっそりと弔われることとなった。
遺体が運び出された数日後。
清怜閣の庭では、祭祀官たちが物々しい祭壇を組み、銅鑼や鈴を鳴らして盛大なお祓いを行っていた。白檀と丁子をたっぷりと混ぜ込んだ香煙が、初夏の風に乗って青空へと吸い込まれていく。
凜華は、景雲と共にその様子を少し離れたところから眺めていた。
「これで、彼女の魂も少しは安らぐといいんだけど」
凜華は祓いの儀式を見ながらぽつりと呟いた。
隣に立つ景雲は、腕を組んだまま気難しげな顔を崩さない。
「お前は霊魂を信じているのか。アルゴンだのカリウムだのと、理屈をこね回す口から出る言葉とは思えんな」
「信じる信じないじゃなくて、死者への敬意の話。彼女は百年もの間、あの冷たい地下室に閉じ込められていたのよ。お祈りの一つもしたくなるわ」
凜華が反論したその時、李元が小走りでやってきた。その手には、小さな木箱が恭しく捧げられている。
「陛下、凜華殿。染織房より、調査結果の報告が上がってまいりました」
李元は息を切らしながら、凜華に向けて木箱を差し出した。
「待ってました。例の『爪の中の繊維』ね」
凜華が木箱の蓋を開けると、そこには露珂妃の遺体を検分した際に、彼女の爪の隙間から採取した黒い繊維とそれによく似た布地が入っていた。
「染織局の生き字引きが、過去の織帳と照らし合わせながら調べました。この繊維は、現在のものとは染料の配合が異なりますが……百年前の『宦官が着用していた官服』の布地で間違いないと。当時は、五倍子を用いた鉄媒染で黒く染めていたとのことで」
李元の報告を聞き、凜華はああと嘆息した。
「やっぱりそうだったのね……」
凜華は、景雲の方を向いて言った。
「陛下。露珂妃は、自分を殺そうとする男の服を掴んで、最期まで必死に抵抗した。その執念が、百年後の私たちに真実を教えてくれたわ。彼女は駆け落ち相手の宦官に殺されたのよ」
清怜閣の庭に響く鈴の音が、どこか哀切を帯びて聞こえる。凜華は、手のひらの上の小さな黒い繊維を見つめながら、百年前に起きた惨劇に思いを馳せていた。
「……そもそも、露珂妃は本当に密通してたのかな? 男が勝手に懸想して、勝手に絶望して彼女の首を絞めたのかもね」
凜華の呟きは、怒りというよりも深い同情に満ちていた。
「可哀想に……。自分を殺した男と駆け落ちしたなんて汚名を着せられて」
凜華はふうと息を吐き出し、遠くの空を見上げた。
「もし、彼女の中に『逃げたい』という気持ちがあったとしても、それは男への愛じゃないわ」
「……どういう意味だ」景雲の声は低く、どこか刺々しかった。
「皇帝にしろ、宦官にしろ、自分を後宮に押し込めて縛り付けようとする男たちから、自由になりたかっただけかも……ってこと。この場所から抜け出したかったんじゃないかな」
その感傷的な呟きは、隣に立つ皇帝の耳には、全く別の意味を持って響いていた。彼は先程から、凜華の言葉一つ一つを、まるで自分を突き刺す針のように受け止めていた。
玉印の事件以来、景雲は凜華の「知恵」に依存すると同時に、彼女がいつか後宮という檻から、気体のようにすり抜けて消えてしまうのではないかという、言いようのない不安に駆られていたのだ。
彼は凜華をじっと見つめると、その端正な顔に隠しきれない苛立ちを浮かべた。
「……もしや、お前は」
「え?」
「私の傍にいるのが嫌なのか」
「はい?」
凜華は間の抜けた声を出した。
感傷的なムードは一瞬にして吹き飛び、目の前には、なぜか眉間に青筋を立てた皇帝が立っている。
「後宮から出て、自由になりたいだと? 誰がそんなことを許すか。絶対に許さんからな」
景雲の声が辺りに響き渡った。祭壇前の官たちがビクッとして鈴を鳴らす手を止めるほどである。
「ちょ、ちょっと陛下、急にどうしたの? 私は露珂妃の心情を推理していただけで」
「誤魔化すな。何が『縛り付けようとする男たち』だ。私はお前を守るために日々腐心し、薬を作るための材料を与えてやっているというのに」
景雲は、抑えきれない焦燥感と、彼自身も正体のわからない独占欲を爆発させた。
その瞳には、かつてないほどの的外れな熱が宿っていた。
「この恩知らずめ。お前は一体、私の何が不服なのだ。これ以上何を望むというのだ」
「いや、不服なんて一言も……っていうか、話の飛躍が凄まじすぎてついていけないんですけど」
「うるさい! お前は一生、ここで私のために薬を煎じていればいいのだ」
景雲はそう言い捨てると、長袍の裾を翻しズンズンと歩き去ってしまった。取り残された凜華は、その後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。
「……もう、なんなの。意味がわからない」
ようやく凜華の内にも沸々と怒りが湧いてきた。
「なんで陛下がキレてんの? 男のプライドってやつ? それともカルシウム不足?」
「あの、凜華殿」
李元が、申し訳なさそうに言った。
「陛下は、その……凜華殿がいなくなってしまうのではないかと、ご不安になられたのでございましょう」
「そりゃ私がいないと、不眠症がぶり返して眠れなくなるしね。不安でしょうよ」
「いや、そういうことではなくてですね……」
「どういうことなのよ」
「ん~まあ、悪気はないと思いますよ。いささか表現が不器用なだけで」
「不器用にも程があるわよ。あんなの、ただの逆ギレじゃない」
凜華は怒りながら、手の中の黒い繊維を再び木箱にしまった。ぶつぶつと文句を言いながらも歩き出す。
「……仕方ないわ。とりあえず精神を安定させる薬を煎じて、あのわからず屋の口に突っ込むしか」
百年前の悲劇の謎は、科学の力によって鮮やかに解き明かされた。
だが、最高権力者でありながら、思春期の少年のような拗らせ方をする皇帝の心理というものは、いかなる化学式を用いても解明できない最も厄介な難問のようであった。




