第44話 百年前から時を止めた妃の謎を解くぞ<四>
凜華は景雲から離れ、確信を持って語り始めた。
「地下室にあった毒の気体は希ガス。アルゴンよ」
「あるごん?」
「空気中には0.9%ほどの『アルゴン』という気体が存在するの。クリプトンやキセノンといった希ガスもあるんだけど、それらは百万分の一以下の超微量。数十年、数百年かけて部屋を満たすほどの量が溜まるなんて確率的にありえない。でもアルゴンは別よ」
彼女は、地質学的な時間の魔法について説明した。
ここの地層は、おそらくカリウムを豊富に含んだ長石や雲母が多い。カリウムは、数十億年という気の遠くなるような時間をかけて、ゆっくりと崩壊しアルゴンへと姿を変える。これが地殻のひび割れから染み出し、気密性の高い地下室に「水」のように溜まっていったのだ。
「アルゴンは『不活性』。何にも反応しない。だから、百年前の妃の衣服も、銀の髪飾りも真珠も酸化を受けずに鮮やかなまま残された。彼女が腐らなかったのは、アルゴンという完璧な『防腐の檻』に閉じ込められていたからよ」
調査官たちが倒れた理由も明白だった。
アルゴンは無毒だが空気より重いため、床付近に純粋なアルゴンの層を形成する。入り口を開けただけでは、水が瓶の底に残るようにアルゴンは逃げ出さない。
調査官が遺体を詳しく調べようと「屈み込んだ」瞬間、彼の頭は酸素ゼロのアルゴン層に突っ込んだ。肺の中の酸素が一気に逆拡散で奪われ、脳が酸欠を起こして失神したのである。
二人は清怜閣を出て、検分所へと戻った。
再び現れた露珂妃の姿は美しく、そしてなんとも言えない哀愁を帯びていた。
酸素がある地上に戻ったことで、彼女の体はこれからゆっくりと、本来辿るべき「時間」を歩み始めるだろう。
凜華は時が動き出した妃を見つめた。
「謎は解けたわ。二酸化炭素じゃなかった。彼女はアルゴンが作り出した奇跡に百年間守られていた」
「奇跡なのか?」
「アルゴンは化学反応で、つまり人為的に作ることはできない。自然に生じたアルゴンが、床上四十センチも溜まるなんて滅多にないことよ」
「妃は見えぬ壁に守られ、近づくものに死を与える。これだけ聞けば完全に呪いだが……違うのだな」
「ええ。これからは彼女も日の当たる場所で眠れるはず。でも……」
凜華は妃の首筋を凝視した。
「気になることがある」
酸素を一切含まない高純度の不活性ガスの中に沈んでいた露珂妃。彼女の肌は、酸化を免れ、死の瞬間の色をそのまま留めているはずだった。
凜華は手を伸ばし、妃の首に巻かれた真珠の首飾りを慎重に外した。
現れたのは、何かを強く押したような鬱血の痕。白い陶器のような肌の上に、それはくっきりと浮かび上がっていた。
「指の跡……。それも、かなり強い力で絞められた圧迫痕ね」
凜華の指が、妃の首に刻まれた死の色をなぞる。皮下出血の赤紫色は、酸化して黒ずむこともなく、つい数時間前に付けられたかのような鮮烈さでそこに残っていた。
「死因はアルゴンによる窒息ではないのか?」
「陛下、アルゴンは彼女を『保存』しただけよ。見て。この首の痕……露珂妃は殺されたのよ。誰かに絞め殺されたんだわ」
「絞められた……?」
うっと景雲は小さく呻いた。彼は無意識のうちに喉に手を当てた。心なしか顔が青ざめている。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」景雲は大きく息を吐き、喉から手を離した。
凜華は妃の手を取ると、爪の先を景雲に見せた。
「さっき調査に回したけど、爪の中には黒い繊維が詰まっていた。布みたいだけど、彼女が着ているものとは違う。きっと死ぬ間際に相当激しく抵抗したんじゃないかな。相手の腕か胸元を必死に掻きむしったとか」
さらに凜華は妃の足を指差した。
「足もそう。これは底の薄い布靴、たぶん室内履きよ。靴を履き替えてすらいない。駆け落ちして、これから馬に乗ろうという人がこんな靴で外に出ると思う?」
現場に遺されていた遺留品――銀子の入った袋や馬の手配書。それらは一見、恋仲の二人が周到に準備した「愛の逃避行」の証拠に見えたが……。
景雲はハッとした。表情が険しくなった。
「……つまり、こういうことか。当局は『妃と宦官は密通の末に捕らえられて処刑された』と記録したが、実態は違ったと」
凜華は頷いた。
「おそらくはこうよ。前後の事情はわからないけど、室内にいた露珂妃は、無理やり外に連れ出されたか拉致された。彼女は必死に抵抗したけど絞め殺された」
「……女の方に駆け落ちの意志はなかった?」
「途中で気が変わった可能性もあるけどね。とにかく彼女は殺されて、清玲閣の地下室に運び込まれた。その後、相手の男は捕まったけれど妃は見つからない。逃げられたのなら管理責任を問われる。だから、当時の役人たちは『二人とも捕らえて処刑した』ということにしたんじゃないかな」
死体は地下の隠し部屋に置かれたまま、誰もその存在に気づかなかった。宦官は処刑され、行方が知れない妃も裏切り者として断罪された。
露珂妃は、酸素のない冷たい闇の中で百年もの間、誰かが見つけてくれるのを待っていたのだろうか。




