第42話 百年前から時を止めた妃の謎を解くぞ<二>
清玲閣の地下室から引き上げられた妃らしき遺体は、長楽殿近くの臨時の遺体置き場、霊安室も兼ねた検分所へ慎重に運ばれた。
役人たちが妃の身元を特定すべく、身につけていた所持品や地下室から回収された遺品を調べ始めた。
当初は、現在の後宮内に住まう妃かと思われたが、景雲の妃たち全員が健在であり、その他にも該当する者はいなかった。
驚いたことに、彼女が着ていた衣服の仕立て具合や流行、髪飾りの意匠、手形に記された年号。それらはすべて、今からおよそ百年前のものであった。
さらに学者たちが古い記録を紐解くと、一つの悲劇的なスキャンダルが浮かび上がってきた。
百年前の当時、後宮には皇帝の寵愛を一身に受けていた「露珂」という高位の妃がいた。彼女は異国の出身で、赤みがかった金髪と榛色の瞳、柳のようになよやかな肉体と美しい声を持っていたという。
露珂妃はこれまた後宮きっての美貌を誇る宦官と恋に落ち、あろうことか駆け落ちを企てた。後宮から逃げ出そうとしたが計画は露見し、捕まった二人は処刑された……というのが公式の記録だった。遺体の傍に置いてあった大金や馬の手配書、通行手形は駆け落ちのための準備の品と思われた。
処刑されたはずの妃の遺体が地下室から出てきたのだから、謎は深まるばかりである。自然死にしろ、刑死にしろ、遺体は必ず外に出される。後宮内に葬ったり墓が作られたりすることはない。それは百年前も同じだった。
詳細を聞いた凜華は、検分所へやってきた。二酸化炭素中毒が死因なら、遺体を見ればわかると考えたのである。
室内は灯りが点されて明るかった。
露珂妃は大きな平台の上に乗せられ、布がかけられていた。
担当の宦官が布を剥いで見せた。
凜華は、遺体を注意深く観察した。
「確かに腐ってない。重い気体による酸素遮断と仮定してよさそうね」
死んだ直後に時を止めたような、今にも起き出してきそうな露珂妃の生々しい美貌に圧倒される。
そこで凜華は一つの疑問にぶち当たった。
「でも……ちょっとこれは。きれいすぎる」
これが数日前に亡くなって二酸化炭素に浸かっていたというならば納得できるが……。
二酸化炭素に長年晒された場合、死体には「酸性」による変質が起きる。二酸化炭素は水に溶けると炭酸になるが、死体には水分が含まれているため、肉体そのものが「酸性」に傾く。そのため、酸によってタンパク質が変質し、肌が褐色に焼けたり、革製品の鞣しのように硬くなったりする。
また酸はカルシウムを溶かす性質があるため、百年も経てば骨が脆くなったり、細くなったりする。
露珂妃の身体はまったく酸化せず、崩れてもおらず、蝋人形のような完璧な状態を保っている。
凜華の視線は、妃の白い喉に巻きついた真珠の首飾りに釘付けになった。
真珠の主成分も炭酸カルシウム。湿気や遺体由来の水分が、長い年月を経るうちに真珠の表面をじわじわと溶かし、水溶性の炭酸水素カルシウムに変えてしまう。
真珠の輝きは失われ、表面は粉を吹いたように白くガサガサとしたチョーク状になり、形が崩れてしまうはずだった。
「地下室が二酸化炭素で満ちていたなら、真珠の表面は酸で溶けて白濁しているはず……。変ね。この首飾りは、今朝磨き上げたように輝いている」
凜華は信じられない気持ちで手を伸ばし、真珠に触れた。
百年の時を経たとは思えない、内側から発光するような瑞々しい虹色の輝き。
「酸を寄せ付けず、湿気とも混じり合わない。そんな都合のいいものがこの世に……? いや、あるわね」
凜華の脳内には周期表の右端に鎮座する、高貴にして怠惰な気体たちが浮かび上がった。
真珠に触れた際に、首飾りがずれた。下の肌に何か赤いものが見えた。
「ん?」
凜華は顔を遺体の首に近づけた。鬱血痕のようなものが点々と浮かんでいる。
「なんで?」
不思議に思いながら、遺体の手を確認する。
白く細い指先に、何か黒いものが見えた。
磨かれた長い爪と指の間に、黒い繊維のようなものが詰まっている。確認すると、両手の全ての爪に詰まっていた。
凜華は薬箱から、耳かきのような細い薬匙を取り出した。
薬匙で爪から繊維を掻き出すと、近くにいた宦官を呼んだ。
「これが何なのか調べて。布地だと思うけど」
宦官は「はっ」と言い、受け取った繊維を別の布でくるんで足早に出て行った。
最後に遺体の足先を見た。柔らかな布靴を履いている。
これも何か引っかかる。後宮の敷地内の殆どが未整備であるし、林や沼地もある。道を少し外れただけで木の枝や棘、石など足裏を刺す鋭い異物が沢山転がっている。
男たちは脛まで覆う長靴を履いているし、女官も下女も丈夫な革製の靴を履いている。百年前なら尚のこと、妃も同じだと思うのだが……。
「スリッパ……?」
凜華は首を傾げた。
外が急に騒がしくなった。
検分所に入って来たのは景雲だった。供の者は外で待たせ、李元のみを連れている。室内にいた役人たちは一斉に跪いた。
景雲は凜華の隣りまで来ると尋ねた。
「どうだ、何かわかったか?」
凜華は緩く首を振った。
「まだ何とも言えない。調査官が地下室で倒れた原因くらいかな」
「何なのだ」
「たぶん酸欠による失神。ただ現場を調べないと」
「ならば行くしかないな」
景雲は遺体をじっと眺め下ろした。
「これが時を止めた妃か。腐りも崩れもしないとは、面妖を通り越して怪奇だな」
当初は景雲の妃ではないかと考えられたため、彼も後宮内で殺人か事故が起きたのかと不審がっていた。
それならそれで調査をせねばと思っていたら、(放置しているので顔も名前も一致しない)妃たちは全員無事であり、遺体は百年前のものだという。まさかの展開に、内心驚きを隠せない。
凜華が調べ始めたと聞き、興味を覚えてやってきたのだった。
「これは死んでなお生きている幽霊なのか? それとも悪鬼か?」
「違うよ」と凜華は前を向いたままきっぱりと言った。
「駆け落ちの準備をしたまま、地下室で死んでいた妃。腐らない身体と人を寄せ付けない見えない壁……。幽霊にしては、あまりにも『化学的』な状況じゃない?」




